歴史年表教材

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推定約30000-10000年前 縄文時代

10000年以上続いた縄文時代の遺跡からは、対人用の武器が見つかっていなかったことから、平和な社会であったことが解ります。農耕、水稲や植林が行われ、狩猟生活であるにも関わらず、定住が可能でした。土器や土偶、装飾品なども高度な技術がありました。

 

B.C1800 バビロン第一王朝時代

ハンムラビが都市国家バビロンの第6代王になり、後にメソポタミア地域のユーフラテス川沿いに勢力を拡大してバビロニア帝国の初代王となり、ハンムラビ法典を制定して中央集権を目指しました。

都市は川を跨いで両岸に造られており、洪水を防ぐ為堤防が築かれていました。

バビロンは、現在のイラクに当たる地域に位置し、旧約聖書のノアの息子のハムの孫であるニムロデが興した町、バベルに当たります。

 

B.C1000 ソロモン第一神殿建設

 

B.C980 イスラエル王国 南北分立

サウル、ダビデ、ソロモンと栄耀栄華を極めましたが、ソロモンの死後南北に分立して北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれました。

 

B.C722 イスラエル王国滅亡 

アッシリアに滅ぼされ10部族が追放されました。

 

B.C609-539 新バビロニア帝国時代

バビロン第一王朝はバビロニアの北部のアッシリアに攻撃されて陥落し、アッシリア王によって新バビロニア帝国が再建されました。

2代ネブカドネザル王はシリア、パレスチナに遠征を繰り返し、B.C597エルサレムが陥落しました。

バビロン捕囚が始まり、多くのユダヤ人がバビロニアに連行されました。

ネブカドネザル王は復興に力を注ぎバビロン城門のイシュタル門を建造したり、マルドゥク神殿やジッグラトを建設しました。

アケメネス朝キュロス2世に征服されるまで地中海地域を支配しました。

 

B.C587 第一神殿崩壊

ユダ王国がバビロンに征服され、エルサレムと第一神殿が破壊され大半のユダヤ人がバビロンに捕囚されました。

この恨みが集大成されタルムードを生み出しました。

 

B.C.660 神武天皇即位

211日、日本が建国されました。 即位に際して『八紘一宇』、世界を一つの家とする世界平和の理念を掲げました。

2000年前 弥生時代

半島からの攻撃に遭い、衣類や土器も簡素なものになりました。

 

B.C550頃 アケメネス朝ペルシア時代

キュロス2世がメディア王国を滅ぼして独立しました。

イラン高原、小アジア、インダス川流域を支配しB.C538新バビロニアを滅ぼしましたが、ペルシアはアレキサンダー大王によってB.C330に滅ぼされました。

 

B.C538 第二神殿再建

ユダヤ人がペルシア帝国のキュロス2世によってバビロンから解放され、イスラエルに戻り、エルサレムに第二神殿を再建しました。

 

B.C330頃 古代ギリシャ時代

アレキサンダー大王はB.C331東方大遠征によりペルシアを滅ぼし、その後ギリシャ文化とオリエント文化、東西の文化を融合させたヘレニズム時代が始まりました。

その後ローマに攻められ属州になりました。

 

B.C272 都市国家ローマがイタリア半島を統一する

軍道を整備したため『全ての道はローマに通じる』と言われるようになりました。

イタリア半島の都市を分割統治し地中海に覇権を伸ばして行きました。

 

B.C264-146 ポエニ戦争

共和制ローマがカルタゴを破り、シチリア島をローマ初の属州にしました。

カルタゴの名将ハンニバルがアルプスを越えてイタリアへ入ったためローマは苦戦しましたが、ハンニバルを倒しました。

 

B.C.221 秦の始皇帝中国統一

万里の長城を築くなど、遊牧民の侵入を防ぎましたが、各地で農民の反乱が起こり15年で滅亡しました。

 

B.C37 ローマのヘロデがユダヤの王に即位

 

B.C.27 イタリア半島をローマが統一しローマが帝国(B.C27-1453)となる

ローマの将軍カサエルはフランス、エジプトにも遠征してクレオパトラを女王の座に就けました。

カエサルはブルータスに暗殺され、部下のアントニウスがブルータスを破りましたが、その後アントニウスとクレオパトラの連合艦隊はオクタビアヌスと戦って破れ、オクタビアヌスが地中海一帯を統一しました。

元老院はオクタビアヌスにアウグストゥス(尊厳なるもの)という称号を与えました。

 

B.C6 パレスチナがローマの属州となる

パレスチナがローマの属州となり、ピラトがパレスチナの総督となりました。

 

B.C4 イエスキリスト誕生

 

30年 イエスの十字架

 

66年 ユダヤ戦争

 

70年 第二神殿崩壊

73年 ローマ軍によってマサダの砦陥落

ローマ軍によりマサダ要塞が陥落、967人が自決しユダヤ民族は放浪の民となりました。

 

312年 ミラノ勅令

迫害を受けてきたキリスト教をコンスタンティヌス帝が公認しました。

キリスト教の支配力を帝国の安定のために利用したほうがいいと考えるようになりました。

そしてコンスタンティノーブルへ遷都しました。

 

210年 ミシュナー(口伝律法)成立

 

390年 ミシュナーの解釈書であるタルムードの完成

 

392年 キリスト教がローマの国教となる 

テオドシウスがキリスト教を国教化し、全ての異教を禁止しました。

これを機にキリスト教は世俗化していきました。

 

395年 ローマ帝国東西分裂

テオドシウス帝の死をもって東西に分裂してしまいました。

 

538-1798年 暗黒時代

教皇庁に従わないクリスチャンを迫害した時代が続きました。

 

600年 カザール国誕生

 

740年 カザール国がユダヤ教を国教化

カザール国は窃盗や、近隣国の子供を誘拐して生贄殺人をするなど、ロシアなど近隣諸国間と問題を起こし黒魔術悪魔崇拝の悪習慣がありました。

ロシアなどの周辺国は長年に亘って甚大な被害を受けたため、カザール国王にアブラハムを期限とする3つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のうちの1つを選びカザール国民に徹底させるよう通告しました。

しかしカザール王はユダヤ教を信奉する様に見せかけ、オカルトユダヤ教を国教としました。

 

622年 イスラム教が誕生する

イスラム教はムハンマドが啓示を受けて出来たと言われていますが、実際は教皇庁が多額の出資をして作った宗教でした。

その目的はユダヤ教とキリスト教の撲滅、そしてイスラエル奪還でした。

ムハンマドは後継者を残さなかったためシーア派とスンナ派に分かれ争いが絶えず、現在の中東問題に至っています。

 

604年 聖徳太子十七条憲法制定

日本初の成文法であり、人々が平和に暮らしていくための道徳規範が中心になっています。

 

607年 聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋に派遣

隋皇帝あての親書には『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙無きや』とあり、隋の皇帝煬帝は激怒したと伝えられています。

聖徳太子は、日本は冊封を受けない、隋と対等な国であるという姿勢を示しました。

 

618年 律令政治の始まり

農民の反乱などによって隋が滅び唐が興りました。

法律で政治がなされる律令格式が定められました。

 

630年 第一回遣唐使派遣

20年に一度、894年までに20回派遣されました。

唐からは鑑真が来日し、日本からは安倍仲麻呂や最澄、空海が唐に渡りました。外国人の流入により治安が悪化し、894年菅原道真によって廃止されました。

菅原道真は天満天神として祀られています。

 

645年 大化の改新

聖徳太子亡き後、蘇我入鹿が朝廷の政治をほしいままにしていましたが、中大兄皇子(後の天智天皇)は曽我氏を滅ぼし天皇による中央集権体制を整えました。

公地公民の政策を進め、戸籍を作り口分田を分け与え、租調庸の税制を定めました。

 

663年 白村江の戦い 

唐と新羅が百済を攻め百済が滅びましたが、中大兄皇子は百済復興の救援に応じました。

新羅は唐の援軍を受けていたため、倭国と百済は白村江で敗れ、日本に引き揚げました。

このときに倭国は、「日本」と国名を変更しました。

日本が百済の為に派遣した兵は累計で27000人と言われています。

この戦いの後日本は、北九州に防衛のため外堀を設置し、防人と呼ばれる兵士を配備して唐の侵略を警戒すると同時に、遣唐使を送って国交を続けました。

 

676年 新羅、朝鮮半島統一

 

701年 大宝律令制定 律令国家の完成

土地は公有化を原則とし、6歳以上の民には口分田が与えられました。

寺社の田畑は例外で寺社は荘園を増やして行きました。

 

710年 飛鳥の藤原京から奈良の平城京へ遷都 

藤原京の5倍の広さで碁盤の目の都市が作られました。

70年間の奈良時代、天平の仏教文化が花開きました。

 

712年 古事記完成

天武天皇の命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が編纂しました。

 

720年 日本書紀完成

天武天皇の命により編纂されました。初代神武天皇から第四十一代持統天皇までの歴代天皇の業績が記述されています。(仁徳天皇の民のかまどの話など)

 

740年 カザール帝国がユダヤ教へ改宗

カザール人がユダヤ人と名乗るようになり偽ユダヤ人の誕生となりました。

タルムードと黒魔術が一体となりました。

 

743年 墾田永年私財法制定

墾田永年私財法によって貴族や寺院は私有地を広げていき、荘園となっていきました。

 

752年 奈良の大仏開眼供養会

 

784年 平城京から長岡京へ遷都

寺院や僧侶の力が増し、農民が疲弊したことを憂いた桓武天皇は桂川、宇治川、淀川に近く河川の物流も可能な長岡京に遷都しました。

 

794年 長岡京から平安京へ遷都

奈良時代においては、聖武天皇の下で仏教が栄えましたが、道鏡が天皇の位を狙うなど僧の力が強くなりすぎました。

桓武天皇は寺院の発言力を弱めるため、京都の長岡京を作り始めましたが、側近の暗殺や皇后や皇太后が亡くなるなど順調に運ばず、平安京に都を造りました。

以降400年間に亘って平安時代が続きました。

 

800年 カール大帝即位

カール大帝はヨーロッパの父とも呼ばれています。

ローマ教皇レオ3世によって戴冠されたカール大帝は、キリスト教世界の守護者たるローマ帝国の後継者として正式に承認されることになりました。

権力の頂点に立った教皇は、『教皇は太陽、皇帝は月』と言いました。

 

894年 遣唐使廃止 

唐との貿易は大きな利益を齎しましたが、外国人流入による治安悪化の為、菅原道真の進言より廃止になりました。

死後、菅原道真は、勉強の神様として『天満天神』として祀られています。

遣唐使廃止後、菅原道真は藤原時平の策略により醍醐天皇によって失脚させられ、大宰府に流されました。

 

1077125日 カノッサの屈辱

教皇グレゴリウス7世は、叙任権闘争によって叙任権を否定した皇帝ハインリヒ4世を破門して、3日間、雪が降るカノッサ城の城門で裸足のまま断食をさせました。

このように教皇と皇帝の権力争いが続きました。

 

1096-1249年 十字軍遠征

カトリックの支配拡張と聖地奪還の為、7度に亘って十字軍が戦乱を引き起こし、虐殺が行われました。

イスラム教徒との戦闘による戦利品の略奪、人身売買という経済的な目的を見出し、イスラム教徒を駆逐しました。

しかし聖地奪還が果たせず、教皇の権威は失墜していきました。

 

1185324-425日 壇ノ浦の戦い

平清盛の死後、源(木曽)義仲が平氏を攻め、平氏は安徳天皇を奉じて京都から逃げました。

後白河法皇は義経に平氏追討を命じ、平氏は滅び、安徳天皇も海に没して崩御しました。

 

1192年 鎌倉幕府成立

源頼朝が征夷大将軍になり武家政治が始まりました。

天皇の承認の下将軍職を拝命しました。

 

1206年 チンギス・ハンがモンゴル民族を統一

ロシア、ポーランドにも遠征し、第五皇帝フビライ・ハンはカラコルムから大都へ都を移し1271年に元号を元と定めました。

フビライ・ハンは高麗、ビルマ、南宋を滅ぼして中国を統一しました。

ベトナム、ジャワ、日本にも侵攻(元寇)しました。

フビライ・ハンの死後内乱が続き史上最大の大帝国は1368年に滅びました。

 

127410月 文永の役(元寇・蒙古襲来)

 

12681

マルコポーロの東方見聞録によって日本の繁栄を知ったフビライ・ハンは、日本を傘下に治めようと、使節に国書を持たせ日本に派遣しました。

しかし執権北条時宗は交渉をしないと決断しました。すると元軍は対馬、壱岐を占領し島民を虐殺し、さらに博多湾へ攻め寄せてきました。

しかし、夜に嵐が起こって元の船は沈没してしまいました。これは「神風」と呼ばれています。

 

1281年 弘安の役(元寇)

元による2度目の襲来です。

艦隊4,400艘、兵士150000人という世界史上最大の元の大軍に対して、日本軍は1/3だったにも関わらず善戦し、神風の暴風雨もあり元軍は退散しました。

フビライは三度目の侵攻計画を準備していましたが、フビライの死によって計画は中止されました。

 

1309年 アビニョン捕囚

教皇の権力が衰退し、教皇クレメンス5世はフランスのフィリップ4世に1377年までの68年間、アビニョンに捕囚されました。その後教皇グレゴリウス11世がローマに帰還しました。

 

1333年 鎌倉幕府滅亡

鎌倉幕府に対して元寇の恩賞に関する不満などが湧き起こり、後醍醐天皇が即位して天皇親政が始まりました。

 

1336年 室町幕府成立

足利尊氏は北朝の天皇を立てて、将軍に任命され室町幕府を開きました。

足利義満の時代に南北朝が統一され、幕府の全盛期を迎えました。

 

1467年-1478年 応仁の乱

跡継ぎが産まれなかった足利義政は、弟の義親を「男子が産まれても、その子は僧にする」と言って跡継ぎに立てますが、翌年妻の日野富子に義尚(よしひさ)が出来ると、富子は我が子を将軍にしようと山名宗全を後ろ盾に立て、義親は細川勝元を頼り争いました。

山名側(西軍)と細川側(東軍)の戦いは全国的な紛争となり、京都市街は焦土と化しました。

 

14921012日 コロンブス新大陸発見(新大陸侵略)

スペインを出発したコロンブスは、バハマ諸島のサン・サルバドル島へ到着し、その後キューバ本島、イスパニョーラ島を発見しました。

その後、スペインの女王イザベルの出資で香辛料や、宝石を目当てにインドを目指しましたが、コロンブスはアメリカ大陸に上陸し、アメリカ大陸をインドだと勘違いしました。

そのため原住民をインディアンと呼びました。

歓迎した先住民たちから金品を略奪し虐殺したのちスペインへ帰国しました。

 

1494年 トルデシリャス条約

この頃コロンブスの新大陸入植により、白人の植民地支配が盛んになり、スペインとポルトガルで支配領域が争われました。

今後発見される新たな土地についても両国間の対立が想定されたため、教皇に調停を求めたところ、教皇子午線を境に世界をスペインとポルトガルで勝手に分割する、トルデシリャス条約が結ばれました。

 

1517年 マルティン・ルターの宗教改革

十字軍の遠征に失敗した財政難のバチカンは、免罪符を買えば罪が許されるとして大量に販売しました。

それに反対したルターは『95か条の意見書』を書いて教会の扉に張り付け抗議しました。

更に、グーテンベルグが発明した活版印刷機でパンフレットを作成してドイツ中に配りました。

聖書も印刷できるようになったので、特権階級だけでなく、誰もが読むことが出来るようになり、聖書の教えが信仰の基本となりました。

フランスではジャン・カルバンがスイスに亡命して『キリスト教綱要』を出版しました。

新教プロテスタントはヨーロッパに広がっていきました。

 

1519年 マゼラン周航出発

ポルトガル人マゼランはスペイン王の資金を受け、香辛料を求めてスペインから出発しました。

1521年フィリピンに到着したマゼランは、原住民に改宗を迫り、現地の町を焼き払うなど横暴を働いたため、それに反発したフィリピンの原住民との戦いで死亡し、スペインには帰還できませんでした。

 

1521年 アステカ帝国滅亡

現在のメキシコ一帯に存在したアステカ帝国は、繁栄した文明を築いていました。

エルナンデス・コルドバの率いる遠征隊が1517年に上陸し、18年から入植がはじまり先住民をほぼ絶滅させました。

スペイン人はこの広大な土地をヌエバ・エスパーニャ、新しいスペインと呼びました。

 

1533年 インカ帝国滅亡

キリスト教布教のためと称してスペインの派遣したピサロに征服され滅亡しました。1536年に反乱を起こしましたが、1572年最後の皇帝トゥパク・アマルが殺害されました。

 

1543923日 ポルトガル人種子島上陸 鉄砲伝来

当時16歳だった種子島島主の種子島時堯(ときたか)はポルトガル商人から鉄砲2丁を2千両で購入し、戦国時代の日本の戦場に革命を齎しました。

12年のうちに刀鍛冶に複製を作らせ、30年後に日本は世界最多の鉄砲保有国となりました。

 

1549815日 フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸

スペイン人フランシスコ・ザビエルはイグナチウス・ロヨラとイエズス会を結成しました。

そしてポルトガル王からアジアの布教を命ぜられ鹿児島に上陸し、平戸、山口、京都、大分へと広めました。

23か月後ザビエルは日本を去りましたが、その後も宣教師が訪れ、大友宗麟、高山右近、有馬晴信などキリシタン大名は増えていきました。

 

1571年 比叡山延暦寺焼き討ち

それまで商売をするときには寺や神社に場所代を払わなくてはなりませんでしたが、織田信長は楽市楽座によって、市を解放して自由に商売できるようし、経済を活性化しました。

比叡山延暦寺や石山本願寺などは、場所代が取れなくなり、信長と対立するようになりました。延暦寺などの寺院は高利貸しをし、庶民にも恨まれていました。

又、延暦寺は琵琶湖の水運を握っていて陸上と水上に無数の関所を置いていました。

信長は尾張から京都への陸路と水路を押さえて流通を活発にする政策を敷いていましたので利権の争いになりました。

当時の寺院は戦国大名と同等以上の兵力を持っていましたので、大規模な戦いとなりました。

 

1572年 バーソロミューの大虐殺

フランス政府はカトリック教会と共謀して、宗教改革を残酷に鎮圧し排斥しました。

政府はプロテスタントに懸賞金をかけました。カトリック信者であったカトリーヌ・メディチ王妃は、国王が宗教の自由を与えると約束したのに、鐘の音を合図に真夜中の2時に虐殺を始め、2か月で7万人のプロテスタントを虐殺しました。

教皇グレゴリウスはこれを祝ってバチカン大聖堂に3枚の壁画を描かせ、ローマでは喜びの祝砲が打たれました。

全ての教会は鐘を鳴らしお祝いのパレードをして騒ぎました。

 

1573年 室町幕府滅亡

織田信長によって滅亡に追い込まれました。

 

1575年6月29日 長篠の戦い

織田信長と武田勝頼が戦いました。

織田軍は2000丁の鉄砲や大砲を有しており、火縄銃で三段打ちをして勝利しました。

 

1587724日 伴天連追放令

当初秀吉は、キリスト教の布教に寛容でしたが、九州征伐の後、キリシタン大名大村純忠が長崎をイエズス会領に寄進してしまっていることを知りました。その後大友宗麟らキリシタン大名が奴隷貿易に関わっていることも知り、宣教師らに国外退去を命じました。

しかしキリスト教の信仰は引き続き許されました。

 

1592年 文禄の役 豊臣秀吉第一回朝鮮出兵

この頃、1529年にフィリピンがスペインの植民地になるなど、東南アジアの国々が侵略されていきました。

このような海外からの脅威を防がなければならないと考えた秀吉は、明国を落として自動的に朝鮮半島が落ちれば、次には日本を落とすというスペインの策略に対抗し、朝鮮に兵を派遣しました。

 

1594年 サンフェリペ号事件

スペインの貨物船が遭難し、土佐の浦戸に漂着しました。

貨物船の水先案内人は「スペイン国王はまず、宣教師を派遣し、キリシタンが増えると軍隊を送り、信者に内応させて国土を征服し、世界の領土を占領できた」と証言しました。

秀吉はキリスト教の悪意を見抜き「キリシタンを続けたいなら外国へ出ていけ、日本に残りたいなら改宗しろ」と迫り、26名を十字架で処刑しました。

イエズス会が信仰による団結心を高めるため死罪を申し出た為でした。

サンフェリペ号事件により、キリスト教の信仰も禁止されました。 

 

1597年 慶長の役 豊臣秀吉第二回朝鮮出兵

秀吉が亡くなるとともに日本軍は朝鮮から退却しました。

 

16001021日 関ケ原の戦い

秀吉の死後2年目、石田三成と徳川家康は天下統一を目指して対立しました。

武士同士の戦いは、見物客や出店も出るようなもので、海外の革命の様な残虐な虐殺が行われる戦いではありませんでした。

 

1603年 江戸幕府開かれる

徳川家康が征夷大将軍に任官され、江戸を本拠地としました。1876年の大政奉還まで続きました。

 

1635年 参勤交代が定められる

3代将軍徳川家光によって諸藩は江戸に人質を置くようになり、江戸は武家屋敷が立ち並びました。

 

1637年 島原の乱

キリシタン弾圧や相次ぐ凶作により年貢の取り立てに苦しむ島原(長崎県)と天草(熊本県)の農民が、16歳の天草四郎を担ぎ上げて蜂起しました。

37000人が原城に立てこもり、幕府軍と戦いました。

一揆勢は十字架を中心に士気が上がっていましたが、オランダ商船の援軍や松平信綱の包囲作戦により疲弊し、124000の征討軍により原城は陥落しました。

これを機会にキリシタン弾圧が強化され、ポルトガルとの通商が絶たれ、鎖国の時代へと入っていきます。

 

1639年 徳川幕府によるポルトガル船入港禁止 鎖国

キリスト教徒と関係のない、オランダ商人と中国商人だけは出島を通して入国を許されました。

 

1649年 清教徒革命 

重税を課したチャールズ1世に対する不満が募り、クロムウェルをリーダーとする議会軍と国王軍が戦いました。

革命は成功し、チャールズ1世は処刑されイギリスは共和国となりました、クロムウェルはアイルランドやスコットランドを征服し独裁政治を展開しました。

1658年、クロムウェルの死後、王政が復活しました。

 

1688年 名誉革命

チャールズ2世を亡命先のフランスから呼び戻し、王政を復活させました。

しかしチャールズ2世、ジェームズ2世は議会を無視するようになり、国民の反発が強まりました。

そのためジェームズ2世はフランスに亡命し、民意を受けて議会はオランダからウイリアム公を迎え王にしました。

一滴も血を流さず革命が成功したので、名誉革命と言います。

 

165732-4日 明暦の大火

外堀以内の市街地全域を焼失しました。

将軍は街の復興を優先したため、江戸城天守閣は再建されることはありませんでした。

 

1694年 イングランド銀行設立

後にロスチャイルド一族は、1815年に大英帝国で恐慌が起きたことにより、イングランド銀行の株式を買収し、通貨発行権と管理権を手中に収めました。

 

1773年 世界革命行動計画発表

30歳のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは12人の実力者を集めて秘密会議を開き、25か条の内容を発表しました。

 

177651日 イルミナティ設立

ロスチャイルドが資金を与え、イエズス会の修道士でありインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが設立しました。

目的はNWOでした。

1785年に危険思想のためバイエルン政府によって閉鎖されました。

 

177674日 アメリカ独立宣言

イギリスに統治されていた、北米13州の植民地が独立したことを宣言する文書が、アメリカ独立戦争の2年目に大陸会議によって採択されました。

重税などに反発した植民地がボストン港でイギリス船からお茶を海に投げ捨てたボストン茶会事件など反乱が起こりました。

ニューヨーク湾に立つ自由の女神は左手に『独立宣言』を抱えています。

トーマス・ジェファーソンによって書かれた独立宣言には

『全ての人間は平等に作られている。

創造主によって、生存自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利が与えられている。

・・・これらの権利を確実なものとするために政府という機関を持つ。

その正当な権利は被統治者の同意に基づいている。』と書かれています。

しかし平等、自由、幸福の追求は黒人や原住民インディアンには認められませんでした。独立戦争の指導者ジョージ・ワシントンは初代大統領となりました。

 

1789119日 フランス革命

啓蒙思想が影響を与え、イギリス革命、アメリカ独立宣言の思想がフランス革命に結実しました。

フランスは宗教革命を拒否し、腐敗と堕落が極度に達していました。

民は重税による飢餓と貧困に苦しんでいましたが、司祭たちは贅沢に浸っていました。

王と教会に対する民衆の不満が爆発し、教会を壊し、ルイ16世、マリーアントワネットなど王室の多くが殺され、聖職者を奴隷としました。

ブルボン王朝を倒し、封建的特権の廃止、人権宣言、王政廃止、憲法制定など自由・平等・博愛を実現しましたが、内実は社会を崩壊させ。

個人主義を蔓延させるための偽ユダヤ人の革命でした。

バスティーユ牢獄を襲撃し、犯罪人を放ち、武器弾薬を盗み、無法状態となりました。

無神論を流布させ共産主義の基礎を築きました。ブルボン王朝が倒れた後も、意見が異なる人同士で攻撃し合い、恐怖政治の中心者マキシミリアン・ロベスピエールもギロチンに掛かりました。

ヨーロッパ諸国は君主制だったので、近隣のヨーロッパ諸国では、市民革命が広がるのを抑える動きが強まりました。

ナポレオンがそれらの国を攻め、一時は西ヨーロッパの大半を支配しましたが、革命の為に戦ったナポレオンは君主制に戻しフランス皇帝の座につきました。

 

17931126日 フランス議会が聖書を禁じる

フランス議会は『神はフランス共和制の下死んだのだ』と宣言しました。

イエスを詐欺師と宣言し、サタンに最高の尊敬を与えました。

聖書の一週間7日制を廃止し『理性万歳』と唱え聖書を葬りましたが、理性を失った社会は混沌とした世の中になりました。

 

1797717日 フランス政府が聖書を復活させる

 

1798215日 ナポレオン軍、教皇領を占領

ナポレオンがローマのシスティーナ大聖堂に入って教皇ピウス6世を捕虜としてフランスに移送しました。

これによって暗黒時代に終止符を打ちました。

 

1801年 ロンドン証券取引所設立

 

1804年 ナポレオン、皇帝に即位

男女平等などを打ち出し、ナポレオン法典をまとめました。

革命軍指揮官の時にゲットーを解放しユダヤ人に地位を与えました。

 

1810年 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの三男ネイサンがロンドン証券取引所の新支配者となる。

後にベアリング家と共にシティを支配していきます。

 

1815618日 ワーテルローの戦い

ベルギーのワーテルローの近郊で行われた、イギリス・オランダをはじめとする連合軍及びプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍の戦い。

フランス軍が敗北し、ナポレオン戦争最後の戦闘となりました。

ロンドンに多額の貸付をしていたロスチャイルドはイギリス勝利の情報をいち早く掴みましたが、意図的にイギリス公債を投げ売りすることによって、イギリスが敗北したように見せかけて公債を暴落させ、底値になったところで買い戻しました。

イギリス勝利の情報が民衆に知れ渡り、公式発表で大暴騰したところで売り抜け、2500倍の利益を出し「ネイサンの逆売り」と呼ばれる証券売買で巨額の富を獲得しました。

 

1804年 ロシア船撫恤令

将軍・徳川家斉は日本に通商を求めて来航するようになったロシア船に対して『ロシア船撫恤令(ぶじゅつれい)』を出して、水や食料を支給して帰していました。

 

1806年 文化の薪水給与令

 

1807年 ロシア船打払い令

樺太や択捉島で略奪や放火を行ったため、『ロシア船打払い令』を出しました。

 

1808年 フェートン号事件

イギリス軍艦がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、同国人と思って出迎えたオランダ人を拉致しました。

長崎奉行は人質を解放するように求めましが、イギリスは水と食料を要求しました。

長崎奉行の松平康英は国威を辱めたとして、家老数人と切腹しました。

 

1811年 ゴローニン事件

国後島で千島列島を測量中であったロシア軍艦を捕まえ、1806年から1807年にかけて樺太や択捉島で行われた拉致、略奪、放火などの蛮行に対する報復をしました。

 

1824年 大津浜事件

イギリスの捕鯨船が水戸藩の大津浜に上陸し、補給を求めたので与えました。

同じ年に薩摩沖の宝島にもイギリスの捕鯨船が上陸し、牛3頭を強奪しました。

 

1825年 外国船打払令

外国船が1790年代後半から日本近海に出没し、補給を要求してくるようになりました。

日本は鎖国が150年続き平和ボケして武力も手薄になり危機感を失っていました。

イギリス船が室蘭に来航して港の水深を測ったり、アメリカ船が長崎で通商を求めたりしてきましたが、江戸幕府は水や食料を与えていました。

しかし緊張状態が続き外国船を追放することに決めました。

頻繁に接近する外国船は江戸幕府を揺るがせていきました。

 

1825年 薪水(しんすい)給与令

アヘン戦争に敗北して清朝が結ばされた南京条約に驚愕した江戸幕府は情報収集のため、外国船打払い令を廃止し、政策を転換しました。

 

1828年 シーボルト事件

オランダ商館付きの医師、シーボルトが帰国の際、伊能忠敬の日本地図を持ち帰ろうとしたため、国外追放の上、再渡航が禁止されました。

関わった日本人も多数処刑されました。

 

1832年 アメリカのイエール大学に秘密結社スカル&ボーンズ設立

 

1833年 天保の大飢饉

日本の人口の4%が減少し、大塩平八郎の乱などが起きました。

 

1835年 フランスにてAFP通信社設立

 

1835年 テキサス独立戦争

メキシコが革命で混沌としている最中、アメリカはテキサスへの入植を開始しました。

アメリカ人が増えていき、メキシコからの独立を求めたため、戦争が勃発しました。

独立派が立てこもったアラモ砦をメキシコ軍が包囲して全滅させました。

その時すぐ近くにいたアメリカ軍からの救援はありませんでした。

それによってアメリカの世論は「リメンバー・アラモ」と戦争賛成へと動き、テキサス併合への道を進むことになります。

 

1840年-1842年 アヘン戦争 

イギリスは清から茶を輸入していましたが、その代金として銀が大量に流出しました。

そのため、イギリスはインドでアヘン(麻薬)を製造し、清に売ることによって銀を取り戻しました。

アヘン患者が蔓延した清はイギリスに反発し、アヘンを禁止しましたが、1840年、イギリスは清に軍を派遣し、アヘン戦争を引き起こしました。

1842年に勝利した後、再び清にアヘンを売りつけました。

 

1842年 南京条約

清はアヘン戦争でイギリスに負け、香港はイギリスの植民地になりました。

 

1844年 ピール銀行法

イングランド銀行が中央銀行として銀行券の発券を独占することになり、それ以外の銀行券発行が制限されることになりました。

 

1845年 アメリカのテキサス併合

アメリカのジャーナリズムは、西部開拓は天から与えられた使命『マニフェスト・デスティニー』だと訴え、テキサスと共にオレゴンも併合しました。

 

1846-48年 米墨戦争

勝手にテキサスを併合したアメリカに怒ったメキシコとアメリカとの間で起こりました。

メキシコは国交断絶を通告しましたが、アメリカ軍はメキシコ領深くまで侵入し、メキシコ軍の反撃でアメリカ兵が死傷すると、アメリカの領土でアメリカ人の血が流されたと宣戦布告をしました。

メキシコは敗北しニューメキシコ、カリフォルニアを割譲し、アメリカの主張する国境線を受け入れました。

 

1846年 アメリカのAP通信社設立

 

1848年 マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表

 

1851年 イギリスのロイター通信設立

 

1853-56年 クリミア戦争 

オスマン帝国VSロシアの戦争でロシアが敗北し、南下失敗となりました。

 

1853年 黒船来航 ペリー浦賀沖にて開国を迫る。

弱肉強食の砲艦外交は国際社会の常識でした。

幕府に宛てた手紙には、

「日本が鎖国の国法を盾に通商を認めないのは天の道理に背き、その罪は大きい。

通商を開くことをあくまで承知しないならば、我々は武力によってその罪を正す。

日本も国法を盾に防戦するがよい。

戦争になればこちらが勝つのは決まっている。

降伏するときには送っていた白旗を押し立てよ。

そうしたらアメリカは砲撃をやめ和睦することにしよう」と書かれており、強引に開国を迫ったことが分かります。

 

1854213日 日米和親条約 ペリー横浜沖に再び来航

 

1855年 日露和親条約

千島列島の択捉島以南と樺太を両国民の雑居の地としました。

 

1857526日 日米追加条約(下田協約)

アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと下田奉行が結んだ日米修好通商条約の前段階として、下田にて締結した9箇条の日米約定です。

下田・箱館居留の許可、貨幣交換に関する定めが結ばれ、これにより日本の金はアメリカに大量に流出しました。

 

1856330日 パリ講和会議・パリ条約 

クリミア戦争の敗戦国ロシアに対して黒海の中立化を確認し、ロシア南下を阻止しました。

 

1858年 日米通商修好条約

日本の関税自主権を認めず、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約を、井伊直弼が朝廷の勅許を得ないままに結び、桜田門外の変において暗殺される切っ掛けとなりました。

輸入品の関税が低くなったために、安価な綿織物が流入し、国内の織物産業は大打撃を受け、金の大量流出という事態が起きました。

その後、同様の条約(安政の5か国条約)をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結びました。

 

1858年-1859年 安政の大獄

江戸幕府の井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことなどに対して、攘夷派や一橋派が反発したため、井伊直弼に弾圧され、100名が連座し吉田松陰らが処刑されました。

それによって攘夷論が高まり、倒幕への気運が高まりました。

 

1859919日 トーマス・ブレーク・グラバー、長崎に来日

ジャーディン・マセソン商会長崎代理店としてグラバー商会を設立し、生糸や茶の貿易をしていましたが、政治的混乱に乗って討幕派、佐幕派問わず武器弾薬を販売し、亀山社中とも取引をしました。

長州5傑のイギリス渡航の手引きもしています。

明治維新以降武器が売れなくなりグラバー商会は倒産しますが、製茶工場、炭鉱開発、造船工場なども経営し、三菱財閥の相談役としても活躍しました。

日本人と結婚し生涯日本で過ごし長崎に埋葬されています。

 

18591121日 吉田松陰、伝馬町の牢にて処刑(享年30没)

 

1860324日 桜田門外の変で井伊直弼暗殺される

 

1860年 咸臨丸アメリカへ出航

ペリー来航から7年後には、艦長勝海舟らが指揮する咸臨丸が、アメリカに向かって出航しました。

 

1860年 北京条約 

ウラジオストクがロシア領となり、ロシアの日本海進出が可能となりました。 

 

1861412日―186549日 アメリカ独立戦争 (南北戦争)

南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、北部と戦争が始まりました。

南部は奴隷を使って栽培した綿花の英国への輸出が盛んでしたが、北部は綿が育たないので綿の加工で産業を成功させようとするため、綿の輸出を禁止しようというリンカーン大統領が誕生しました。

北部は貧しく武器を持つ力が無かったはずですが、ハリスによって日本から大量に持ち出された金によって武装することが可能となりました。

更にアラスカまで現金で購入しました。この戦争で使われ無用になった武器がフランスとイギリスを仲介して戊辰戦争で使われました。

 

18622月 和宮親子(ちかこ)内親王、徳川家茂に降嫁

桜田門外の変で揺らいだ幕府の威信を回復させるために、公武合体が画策されました。

 

1862914日 生麦事件

島津藩・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人が殺傷されました。

 

186381516日 薩英戦争

生麦事件の報復として賠償金と犯人の処罰を要求されました。

 

18631864年 下関戦争 

馬関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの艦船に長州藩が砲撃を加えたが、惨敗。

その後長州藩は高杉晋作の講和会議を経てイギリスと友好関係を結び、攘夷から薩長同盟へと方針を転換して、明治維新へと進みます。

 

1864820日 蛤御門の変(禁門の変)

弱体化した幕府をフランスが援助し、反幕府派の薩摩、長州はイギリスから武器を購入するなど、国内は内乱が続きます。

長州や土佐などの尊王攘夷派の活動家を新選組が襲撃する池田屋事件などが起き、衝突は激化します。

尊王攘夷派の長州藩は復権を朝廷に求めましたが、聞き入れられず、御所の蛤御門で武力衝突が起こり京都市内を焼き尽くしました。

フランスもイギリスも日本を開国させることが共通の目的で、どちらもロスチャイルド系の金融資本でした。

 

1865414日 アメリカ合衆国16代大統領リンカーン暗殺

 

18659月 坂本龍馬、亀山社中設立

 

186637日 薩長同盟 

幕府を倒し、新政府を作るため、薩摩藩西郷隆盛と長州藩桂小五郎の会談を持ち、同盟を組みました。坂本龍馬の仲介でした。

 

18671014日 江戸幕府滅ぶ

 

1867119日 大政奉還 

15代将軍徳川慶喜により政権を返上

 

1867129日 王政復古の大号令 

明治天皇の名において岩倉具視らによって発せられる

 

18681869年戊辰戦争 

薩摩、長州藩を中心とした官軍は、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、

江戸城無血開城(西郷隆盛、勝海舟)を成し遂げ、

東北戦争(会津藩白虎隊)、箱館戦争(五稜郭制圧)を戦って、幕府軍を破りました。

 

186846日 五箇条の御誓文

明治天皇が近代日本の国作りの根本方針として天地神明に誓約する形で定められました。

17条の憲法に通じる民主主義の精神が現れるものとなりました。

 

1869年 版籍奉還

全国に300近くあった全ての藩が、領地と領民を朝廷に返上するというもので、これにより旧藩主は知藩事となりました。

士農工商の廃止によって四民平等の時代となりました。

 

1871年 廃藩置県 解放令

藩を府や県にして、知藩事を罷免して、中央政府から府知事や県令を派遣しました。

 

1873年 廃城令

姫路城と彦根城以外の城はすべて取り壊されました。

 

187557日 樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)

明治政府は樺太を放棄してロシア領とし、千島列島の全島は日本領とすることを取り決めました。

その後、日露戦争のポーツマス条約で日本は南樺太を獲得。

第二次世界大戦の敗北により日本は樺太・千島列島を放棄しソ連が領有しました。

現在も日本は国後、択捉、歯舞、色丹の4島は千島列島に含まれないものとして返還を求めています。

 

1877129日―924日 西南戦争

地租改正や徴兵制に従わず、新政府の既得権益などの腐敗に抵抗した武士道精神を重んじる薩摩軍(西郷隆盛)と近代化を推進する新政府軍(大久保利通)の戦い。

新式の軍備の政府軍が勝利しました。

動乱の時代を終え、明治政府は盤石の体制を築いていきました。

 

1878年 ベルリン会議 

バルカン半島経由のロシアの南下も失敗しました。

 

1880年 デ・ビアス鉱業会社設立

セシル・ローズはロスチャイルドの融資を取り付け、南アフリカの鉱山を独占し、鉄道、電信、新聞業も支配下に入れました。

90年には首相になり、政治経済の実権も握りました。

1895年の死後、残された資金でローズ奨学金が設立されました。

 

18821010日 日本銀行設立

 

1885316日 福沢諭吉 脱亜論発表

 

188636日 日布渡航条約

ハワイでは製糖業が発展していましたが、白人が持ち込んだ感染症の為先住民であるポリネシア人の人口が減少しました。

サトウキビ畑の労働力を補うためにハワイに移民した日本人の権利を守るために締結されました。

荘園主は入植してきたアメリカ人でした。

 

1889211日 大日本帝国憲法発布(明治憲法・三権分立) 伊藤博文草案

 

1891429日 二宮忠八世界初のプロペラ飛行機実験を成功させる

その後、アメリカのライト兄弟が1903年に有人動力飛行の実験に成功しました。

 

1894725-1895417日 日清戦争

日本の勝利後、『下関条約』と呼ばれる日清講和条約が結ばれました。

第一条は『清は、朝鮮半島の独立を認めること』というものでした。

日本が清と戦った理由は、朝鮮を独立させるためでした。

清からの独立を記念してソウルに『独立門』が立てられました。

 

1895-1945年 台湾統治

日清戦争の結果、下関条約によって台湾が清から日本に割譲されました。

当時流行していたアヘンを撲滅するために、段階的に税率を上げ、追放することに成功しました。

現在の教育、民生、軍事、経済の基盤は当時の日本によって齎されたという李登輝元総統の意見があります。

 

1895423日 三国干渉

フランス、ドイツ、ロシアが、日清戦争の日本の勝利に伴う下関条約により日本に割譲された遼東半島を清国に返還せよと要求しました。

日本は返還に応じざるを得ず、『臥薪嘗胆』が叫ばれ、ロシアに対する反発が強まりました。

 

1897年 ロンドンにマルコーニ無線会社設立

ロスチャイルドの通信支配が開始されました。

 

1897年 第一回シオニスト会議

 

1898812日 アメリカのハワイ編入宣言

これを機に労働契約が無効になり、日系人は1908年までに30000人がアメリカ本土へ移住しました。

この後日本人に対する排斥運動が始まりました。

 

1899112-190197日 義和団事件(北清事変)

清に伝わる武道と新興宗教白蓮教の一派が合体して、失業者や難民を巻き込んで欧米列強の侵略に抵抗し、排外運動が起こりました。

清政府も排外政策を利用し密に支援しました。

義和団は『扶清滅洋』(清を助け西洋を滅ぼす)をスローガンに北京に入り、各国の公使館を包囲し清は欧米列強に宣戦布告しました。

各国の軍隊に鎮圧され清は列強の半植民地となりました。

 

1901年 八幡製鉄所の操業開始

鉄鉱石は中国から輸入し、石炭は北九州の筑豊炭田から運びました。

ドイツ人の技師を招いて、産業革命が進んでいきました。

 

1902130日~1923817日 日英同盟締結

清、韓国における日英両国の利益を守り、ロシアの南下を抑止する狙いがありました。

 

1904210日~190595日 日露戦争

乃木希典大将率いる日本陸軍と東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる日本海軍に対し、ロシアは史上最強と言われたコルサック騎兵と海軍を持ち2倍以上の兵力の差があるとみられていましたが、日英同盟を結んでいた日本は、英国のクーンローブ商会のジェイコブ・シフから融資を取り付け、戦費を調達し勝利しました。

日本は、開戦後1年で旅順要塞を占領し、19053月奉天会戦で大勝し、5月の日本海海戦でバルチック艦隊を撃沈しました。

日露戦争後の「水師営の会見」において、乃木大将はロシアのステッセル将軍に帯刀を許し、その労苦をねぎらったのですが、そのことが日本の武士道精神として語り継がれています。

 

190595日ポーツマス条約(日露講和条約)

セオドア・ルーズベルト米大統領の仲立ちによって締結しました。

大韓帝国における日本の優越権、南樺太の領有権、遼東半島(旅順、大連)の租借権、満州南部の鉄道の権利の譲渡が行われましたが、賠償金はありませんでした。

 

19091016日 伊藤博文、ハルビン市で安重根に暗殺される

 

1910829日-194599日 日韓併合 

国際社会は歓迎し、両国の合意の上で併合されました。

日本は学校建設、インフラ整備など多額の資産を出費しましたが、経営は赤字となっていました。

 

1911-19121月 辛亥革命

孫文が清朝の北京に対抗し、南京に首都を置き戦い、1912年、中国初の共和制国家、中華民国の建国を宣言しました。

ところが、袁世凱は列強国の支援と軍隊をバックに国会を無視し独裁政治を始めました。

孫文は再び革命を起こしましたが、袁世凱に攻められ日本に亡命しました。

 

1912年 清朝が滅び中華民国設立

 

19131223日 連邦準備法成立

アメリカの12州に置かれた連邦準備銀行で構成された中央銀行が連邦準備制度理事会となります。

この銀行は国立銀行ではなく、ロスチャイルドなど国際金融資本家の出資によって設立されました。

 

1914年 東京-大阪間鉄道開通

 

1914-1918年 第一次世界大戦

当初はドイツ、オーストリア(ハンガリー帝国)、イタリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商の対立で、バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と言われるほど列強が入り込みました。

ロシア、セルビア、日本もイギリスと同盟を組んでいる関係で参戦し、最終的にイギリス、フランス、日本、アメリカ、中国など連合国側27か国と、同盟国側ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリアの4カ国が戦い、連合国側が勝利しました。

日本はドイツが持っていたマリアナ諸島や南洋諸島を、国際連盟の委任を受けて統治することになりました。

途中から参戦し、戦場にならなかったアメリカは大きな犠牲を払うことなく、世界の覇権はヨーロッパからアメリカに移り、日本の軍需品の輸出が急増し重工業が発展しました。

それに伴い石炭に代わって、石油が重要な戦略物資となっていきました。

 

191557日 ルシタニア号事件

第一次世界大戦中、アイルランド沖を航行していた英国籍の豪華客船ルシタニア号がドイツ海軍のUボートの魚雷によって沈没し、米国人も犠牲になったことから米国参戦のきっかけとなりました。

ルシタニア号は173tの弾薬を積載しており、国際法に違反していました。事実を隠すイギリスに対してドイツ大使館は事前に米国民に対して乗船を警告していましたが、ウィルソン大統領は弾薬が積載されている事実を認めませんでした。

てしかし近年行われた海底調査で船内に違法な武器弾薬が積載されていたことが判明しました。

ウィルソン大統領のブレーンであったハウス大佐と英国エドワード・グレイ卿の会話記録によりますと、ドイツ軍が客船を沈めたら怒りの炎が米国中に広がり戦争へ導かれるであろう、とアメリカ参戦を誘導していたことが窺えます。

「リメンバー・ルシタニア」が合言葉となりアメリカは第一次世界大戦に参戦しました。

 

1917112日 バルフォア宣言

イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設に支援を約束しました。

イギリス外務大臣バルフォアがイギリスの貴族院議員である第二代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウオルタ・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明されました。

この宣言はイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラブ人のフサイン・アリーと結んだ、フサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言)と矛盾していました。(三枚舌外交フサイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言)

このイギリスの3枚舌外交が現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因となっています。

この背景には、第一次世界大戦中の1916年、戦局でイギリスが劣勢になり、講和を模索していたところ、ドイツ在住のシオニストが「諦めるのはまだ早い、アメリカがイギリスの見方として参戦すれば、イギリスは勝つことが出来る。

条件は、戦勝の暁にはパレスチナの地にユダヤ人国家を樹立させること」という提案をした経緯があります。

それまでユダヤ人はロシアから迫害を受けていて、ロシアに勝って欲しく無かったので、ユダヤ人に牛耳られていたアメリカの新聞はドイツに好意的な報道をしていました。

にも拘らず、取引が成立すると論調は一変し、プロパガンダが開始されました。

ウッドロー・ウィルソン米大統領もバルフォア宣言の発表に賛同しました。

 

1915年 21箇条の要求

当初は、日本と中華民国の合意の上での条約でした。

袁世凱が皇帝と認めてもらうために、袁世凱自身によって起草された内容で、密約だったのです。

しかし袁世凱が約束を破って公にし、国内外に日本が横暴だと訴えました。

それによって、中華民国内で反日感情が起こり、欧米列強は事情を知りながら日本を糾弾しました。

 

1917年 ロシア革命

レーニンが亡命先からニコライ2世を退位させようとして2月革命が起こりました。

首都サンクトペテルブルクでストライキや反乱が発生し、市民の組織ソビエトが興りロマノフ王朝は崩壊しました。(二月革命)

臨時政府が第一次世界大戦を続けていたので、再び国民の不満が募りレーニンを指導者としてボリシェヴィキ新政府を樹立し、社会主義国家を目指しました。10月革命)

19188月ソビエト政権を承認しない連合国軍(米英仏伊加日本)がウラジオストクに上陸(シベリア出兵)しましたが連合国軍は撤退、内戦終結後1922年ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました。

 

1919118日 パリ講和会議 

第一次世界大戦終結後、アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は世界平和の為の機関『国際連盟』の設立を提案しました。アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリアの5大国が参加し、国際連盟の規約について話し合われました。

日本は世界で初めて国際会議の場で『人種平等案』を提案しました。

賛成11、反対5の賛成多数にも関わらず、議長であるウッドロー・ウィルソン米大統領によって否決されましたが、議事録に残され世界の有色人種に勇気と希望を与えました。

敗戦国ドイツに対して、国家予算の25年分にあたる賠償金の支払い、軍備縮小、全植民地の割譲が命じられるなど、法外な制裁が突きつけられました。

 

19193月 コミンテルン(共産主義インターナショナル)結成

 

191931日 朝鮮独立運動 (3・1運動)

韓国では肯定的に評価され国家の祝日に指定されており、北朝鮮では失敗したブルジョア蜂起と否定的な評価となっています。

第一次世界大戦の19181月、ウッドロー・ウィルソン米大統領により、「14か条の平和原則」が発表されました。これを受け、民族自決の意識が高まりました。

イ・ガンス(李光洙)ら留日朝鮮人学生達が神田駿河台のYMCAに終結し、「独立宣言書」を採択しました。

これに呼応した朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の宗教指導者33名が、33日に予定されていた大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせて行動計画を定めたとされています。

独立宣言書は天道教の印刷所で21千枚が印刷されました。北朝鮮では独立宣言を「投降主義分子がウッドロー・ウィルソン米大統領の民族自決主義に無駄な期待を掛け、請託と物乞いで独立を離陸させようとして繰り広げたどんちゃん騒ぎ」と否定的な評価をしています。

代表33人は逮捕されましたが、市内のデモ行進は数万人規模となりました。

キリスト教指導者達の扇動により、朝鮮半島全体が暴徒化し、日本人惨殺や放火が相次ぎました。

朝鮮総督府は警察も加え軍事介入して治安維持にあたりました。

扇動した宗教指導者達は内乱罪が適用されましたが、棄却され刑も軽減されました。

外国に亡命した活動家達もおり、独立運動は挫折し、1945年の日本の敗戦に至るまで大規模な運動は起こりませんでした。

 

191954日 5・4運動

ロシア革命、ウッドロー・ウィルソン大統領の民族自決主義を謳った十四か条の平和原則、3.1運動の流れの中で中国のナショナリズムが高揚し、北京政府はパリ講和会議にて二十一か条の要求の無効を訴えましたが、退けられたことにより、北京大学の学生3000人によるデモが発生し、交渉にあたった役人を処罰するなどして、30数名の学生が北京政府に逮捕されました。北京市内のデモや、日本製品ボイコット、ストライキは全国に広がり上海は都市機能がストップしました。

孫文の中国国民党、中国共産党が出現し、コミンテルンの孫文への働きかけにより中国国民党は中国共産党との提携へと展開していきます。

 

19191111日 エジプト革命 

エジプトがイギリスからの独立を宣言しました。

 

1920110日 国際連盟設立(~1946420日)

1920年、日本は国際連盟より委任統治領として、グアムを除く赤道以北を託されました。

 

19203月-5月 尼港事件

無政府状態だったロシアにて、パルチザン4000名がニコラエフスクを占領し、住民6000名を虐殺しました。

731名の日本人が犠牲となりました。

 

1920428日 梨本の宮方子妃、李王朝の李垠殿下と婚姻。

梨本の宮方子妃は昭和天皇のお妃候補であったにも関わらず、日本の韓国統治時代の融和政策の一環として来日されていた李垠殿下と結婚されました。

植民地として侵略したのであれば、皇室から李王朝に妃殿下を降嫁することはあり得ません。

 

1921729日 外交問題評議会 (CFR)設立

設立目的はアメリカに影響を与えうる国際問題についての会議を継続的に行うこととされました。

創設会議にはジェイコブ・シフ、ロックフェラー、ハリマン、モルガン、バーナード・バルークなどが参加しました。

 

19211112-192226日 ワシントン会議

日本の戦力を抑えようとする思惑で、軍縮会議が行われました。

日本は主力艦保有率を減らされ山東鉄道の還付など中国に対する利権なども手放すことになりました。

そして何れ、日本との戦いを想定していたアメリカは日本とイギリスの分断を目論み、日英同盟を破棄させました。

同盟破棄をイギリスは望んでいませんでしたが、幣原全権大使はそれに代わる形だけの4か国条約を締結して、日英同盟を破棄してしまいました。

日英同盟破棄以降日本は、アメリカに対して単独で対峙しなければならなくなり、情勢はアメリカ主導となっていきました。

 

19221230日 ソビエト社会主義共和国連邦樹立

ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の4か国が平等な立場で加盟しました。

連合国側の干渉を恐れ、首都をサンクトペテルブルクの国境から遠いモスクワへ移しました。

 

192391日 関東大震災

 

1925年 太平洋問題調査会(IPR)設立

太平洋戦争時にはこのIPRによって対日工作が行われました。

上層部は全員がソ連のスパイであったことが判明しています。

資金提供元はロックフェラー財団、カーネギー財団で、資金運用はロスチャイルド系の銀行でした。

 

1927年 南京事件

中国国民党と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人に対する脅迫や暴力が多発しました。

南京では、国民党が南京を占領した際、日本を含む外国領事館と居留民に対して襲撃事件が起こりました。

これに対し、英米は南京を砲撃しましたが、幣原外相は何も反撃しませんでした。

これを機会に日本人に対するテロや殺人が多発するようになりました。そのため入植者たちは満州の治安維持をしている関東軍に頼り、直接被害を訴えるようになりました。

 

192853日 済南事件

中国山東省済南で国民革命軍により日本人9人が虐殺されました。

 

1929211日 ラテラノ条約

ローマ市内のラテラノ大聖堂にてローマ教皇庁がムッソリーニ政権下のイタリア王国と調印した政教条約で、バチカン市国が建国されました。

 

19291024日 世界大恐慌 (ブラックサーズデー)

アメリカに端を発した株価の暴落により世界中が不況に陥りました。

日本製の生糸の暴落や工業製品への関税のつり上げなど、欧米の措置で致命的な打撃を受けた日本は、自給自足のため満州など大陸への進出へと乗り出し、世界から孤立していきました。

 

1930年 中央銀行の中央銀行である国際決済銀行(BIS)設立

ハーグ条約により賠償金の支払いを円滑にさせるための機関として設立されました。

 

1930年 ロンドン海軍軍縮会議

ワシントン会議に続く海軍軍縮の国際会議が米英日で行われ、補助艦の比率が10:10:7と定められました。

 

1930年 台湾・烏山頭ダム完成 八田與一設計による

 

1931918日 満州事変

関東軍が起こした柳条湖事件がきっかけで起こりました。

関東軍1万VS張学良軍30万の戦いでした。

日露戦争後満州はロシアから清へ返還され、日本は租借地として鉄道などインフラに投資しました。

急速な発展を遂げた満州には、漢や半島からの難民が流入して来る様になり関東軍が駐留して治安を保っていました。

日本の支援を受けて満州を統治していた張学良はアメリカからも支援を受け、更に蒋介石の国民党の支配下に入って日本の資産を奪おうと、日本に不利な国際条約違反になる法律を制定しました。

幣原外相の弱腰外交に対して現地の困窮した日本人を守るために関東軍が張学良を追放しました。

 

193231日 満州国建国

915日、日満議定書により満州は中華民国から分離され、関東軍の満州建国を日本政府が承認しました。

日本領事館で保護していた清国最後の皇帝愛新覚羅溥儀を第一代皇帝として迎えました。

 

1933130日 ナチス政権成立

ベルサイユ条約で軍備を縮小させられたドイツは軍部と資本家が支援してヒトラーを首相として立てました。

ヒトラーは『全権委任法』を定め独裁政治を行い、議会や民主主義を押さえました。

 

1933年 ニューディール政策

世界恐慌からの立て直しのため、公共事業や農業政策によってルーズベルト大統領が大不況を乗り越えたとされています。

 

1933327日 国際連盟脱退

国際連盟は日本の満州からの撤退勧告案を可決しました。

満州国にて五族協和の極楽浄土を建設していた日本に対して、中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と関東軍の撤退を求めて提訴しました。

それを受け、国際連盟はリットン調査団を派遣して日本の侵略と認定しました。

1932128日、これを審議していたジュネーブの国際連盟総会で特命全権大使であった松岡洋右外相は初めてそれを知らされ、即興で1時間20分に亘り演説しました。

日本を、正義を貫いたが故に十字架上で殺されたイエスに見立てたので「十字架上の日本演説」とも言われています。

次いでドイツが脱退し、常任理事国2か国が脱退したことになりました。脱退した日独は、英、仏、米と対立を強めることになりました。

 

1936226日 2.26事件

陸軍内部の皇道派のクーデター未遂事件でした。

陸軍の予算を縮小した高橋是清蔵相を殺害し、国会や警視庁を襲撃しました。

昭和天皇はテロ行為に激怒し、軍部に速やかな鎮圧を命じました。

首謀者は死刑となりましたが、軍が主導権を握り日本共産党幹部の主導で軍が政治を動かす体制を作り上げました。

 

193777-194599日 日中戦争(北支事変、支那事変)

 

 193777日 盧溝橋事件

夜間演習中の日本軍に中国軍が発砲、停戦協定が結ばれますが、中国軍は協定を守らず発砲を繰り返しました。

 

 1937729日 通州事件

通州の日本駐留部隊が北京南苑攻撃で手薄な状況の中、午前三時に寝込みを襲撃されました。中国側3000と日本側110の圧倒的な差で日本軍の基地は襲撃されました。そして居留民約380人中280名が殺されました。女性は強姦後陰部を銃剣で刺されたり、男性は指を切断されたたり、目玉をくり抜かれたり、内臓が散乱したりと、言語に絶した虐殺でした。

 

 1937813日 第二次上海事件

中華民国軍の日本租界への攻撃がありました。

 

 19371213日 南京陥落

 

1938-1945年 国家総動員法

大東亜戦争、日中戦争の長期化に際して、労働力や物資割り当てなどの統制、運用を、議会の審議を経ずに勅令で行うことが出来るようになり、言論統制も行われる様になりました。

 

19395-9月 ノモンハン事件

満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって日ソの戦闘がおきました。ゾルゲは日本軍の攻撃拠点をソ連

に通報していました、日本は大敗し、それを切っ掛けにソ連へ侵攻する北進論は弱まり南進論の流れが促されました。

 

1939726日 日米通商航海条約の廃棄通告

米により日本資産の凍結、対日石油禁輸が行われ、また1930年代後半から1940年代初めにかけてABCD包囲網が敷かれるようになりました。

石油の80%をアメリカから輸入していた日本は軍にとって死活問題で、経済封鎖は戦闘行為であるとも言えました。

イギリスの戦史家ベイジル・リデル・ハートは、『この状況で、日本が4か月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する』と言っています。

 

193991日 第二次世界大戦勃発

ドイツ軍のポーランド侵攻によって開始しました。

19416月に独ソ戦に至り、128日に日本が真珠湾を攻撃したことにより大東亜戦争が開始され、連合国と枢軸国の世界戦争に拡大しました。

 

1940年 米の配給始まる

 

1940927日 日独伊三国同盟 松岡洋右(近衛文麿内閣) アドルフ・ヒトラー ムッソリーニ

ベルリンにて調印されました。第二次世界大戦に於ける枢軸国の原型となりました。英、蘭、米の対日感情は悪化しました。

 

1941723日 JB355

ルーズベルト米大統領は、対日攻撃計画書JB355にサインをし、101日までに、350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地区を爆撃する計画を承認しました。

中国空軍にフライングタイガーの米陸海軍パイロットを派遣しました。

真珠湾攻撃以前からアメリカは戦闘態勢にありました。

 

19411126日 ハルノート 

大東亜戦争直前の日米交渉に於いて、日本の要望を全て無視するもので、『中国大陸からの日本軍の撤退』『日独伊三国軍事同盟の破棄』『南京政府を抹殺し、アメリカの支援する重慶の国民党政府が正当な中国政府であると認めること』など日本にとって厳しい要求でした。

リデル・ハートは『いかなる国にも、このような要求を受け入れることは不可能だった』と述べており、アメリカに戦争を回避しようとする意図がないことは明白でした。

パール判事は、アメリカから日本への事実上の宣戦布告だと言っています。

 

19411015日 ゾルゲ事件

『ソ連を日本の侵攻から守る』という使命を受けたドイツの新聞社の日本特派員として来日していたゾルゲと元満鉄、元朝日新聞記者で近衛内閣のブレーンであった尾崎秀実が国際スパイ容疑で逮捕されのちに死刑判決を受けました。

ゾルゲはコミンテルン本部の指令で33年に来日し、尾崎らと接触し対ソ情報を報告していました。

ゾルゲと尾崎は近衛内閣に『北進しても蒙古やシベリアには資源が少ない。南進すれば、欧米の植民地に豊富な資源がある』と南進を促しました。

 

1941128日 マレー作戦

真珠湾攻撃の1時間20分前、マレー作戦によってイギリス領マレー半島に山下奉文中将率いる日本軍が上陸し、シンガポール島攻略を目標としました。

日本軍は55日でマレー半島を攻略しました。

 

1941128日 真珠湾攻撃

日本軍のアメリカ領真珠湾攻撃により大東亜戦争開戦。

奇襲攻撃とされていますが、アメリカは暗号を解読していたため、真珠湾には廃船寸前の艦船しか停泊させていませんでした。

米陸軍司令官のウェデマイヤーは『第二次世界大戦に勝者なし』の中で、ルーズベルトは3500名のアメリカ兵を見殺しにしたと述べています。

宣戦布告をした電報がワシントンの日本大使館に届いた時、人事異動による送別パーティーが開かれていて宿直が居らず、それが発見されたのは、すでに真珠湾攻撃が終わった翌朝でした。

敗戦後この大使館員たちはGHQの人事によって昇進しています。

 

1942年 食糧管理法により、麦、芋、雑穀も配給制度となる

 

1942215日 シンガポール島攻略

山下奉文中将率いる日本軍は、難攻不落と言われたシンガポール要塞を10日足らずで攻略し、イギリスが率いる軍としては史上最大規模の将兵が降参しました。

イギリスのチャーチル首相は『イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏』と言っています。

 

194311221126日 カイロ会談 

蒋介石、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル等連合国による対日方針が話し合われました。

『日本は1914年の第一次世界大戦開戦以降の太平洋で奪取、占領した島嶼を没収される』

『日本人が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される』

『朝鮮は適当な時に自由と独立を得る』

と述べられ朝鮮半島の南北分立の伏線となりました。

スターリンは日ソ中立条約の手前不参加でしたが、27日にカイロ宣言が出されると、翌日スターリン、ルーズベルト、チャーチルの3者でテヘラン会談が行われスターリンは対日参戦を約束しました。

 

194438日―73日 インパール作戦

大東亜戦争のビルマ戦線において、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、英領インド帝国北東部の都市インパール攻略を目指した作戦でしたが、日本軍はインパールに辿り着けず、3万の兵が命を落としました。

戦場になったビルマ人の民家を襲って食べ物を奪ったりする者はなく、白骨街道と呼ばれる様に、餓死した死体が白骨化するほど限界まで戦ったことが伝えられています。

インパール作戦の後、インドの独立運動は盛んになり3年後に独立を果たしました。

 

194471日 ブレトン・ウッズ会議

第二次世界大戦後の金融体制が話し合われ、ドルが基軸通貨となりました。

また、IMFとIBRDの発足を決定しました。

 

194528日 ヤルタ協定 

米ルーズベルト、ソ連スターリン、英チャーチルの間で交わされた極東密約

ソ連はアメリカに対して、満州国の権益(南満州鉄道、港湾)、南樺太、千島列島の領有を要求し、日ソ中立条約を一方的に破棄しました。

ソ連の対日参戦のきっかけとなりました。

日本の領土を如何に小さくするかという話し合いでした。

 

1945310日 東京大空襲 

非武装の民間人を300機のB29が襲い、約10万人が犠牲となりました。明らかにアメリカによる国際法違反でした。

 

1945219-326日 硫黄島の戦い

日本軍21000に対し、アメリカ軍61000の戦いでした。

米軍は5日で片づけるつもりでしたが、一か月の長期戦となりました。

米軍の死者数が日本軍の死者数を上回った戦いとなりました。

アメリカは、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島を占領し、2800㎞の日本本土までB29が直接爆撃できるようになりましたが、それを護衛できる戦闘機はなかったため、日本本土とマリアナ諸島の中間に位置している硫黄島を占領して護衛基地とすることを目論みました。

日本軍硫黄島守備隊、栗林忠道陸軍中将と市丸利之助海軍中将は軍服の肩章を外し、アメリカ陣営に総攻撃をかけ、市丸中将は玉砕に際して『ルーズベルトに与ふる書』を遺されました。

この書は、全米の大手新聞で全文が紹介され、大絶賛されました。書に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となりました。

また、戦後ベストセラーとなったジョン・トーランドの『上る太陽-日本帝国滅亡史』でも紹介されました。

全米の国民に影響を与え、アメリカ海軍アナポリス博物館に保管されています。

 

1945814日 葛根廟事件

満州国興安総省の葛根廟でソ連軍や中国人暴民により1000人以上の日本人が虐殺されました。

 

1945726日 ポツダム宣言(米英支三国共同宣言)

日本への降伏要求の最終宣言でした。

英ウィンストン・チャーチル、米ハリー・トルーマン、ソ連ヨシフ・スターリンによって戦後処理について話し合われました。

実際はトルーマンしか署名していませんでした。

1945814日、日本が受諾しました。

 

1945814日のNYタイムズには「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」と書かれています。

 

194586日 広島原爆投下

 

194588日 ソ連、対日参戦通告

 

194589日 ソ連、満州侵攻

 

194589日 長崎原爆投下

 

1945815日 終戦の詔勅

 

1945817日 インドネシア独立宣言

インドネシアは350年に亘り、オランダに占領され植民地とされていました。

インドネシア独立宣言草案は、大日本帝国軍政時代にインドネシアに設置された独立準備調査会において起草され、独立準備委員会において採択されました。

この宣言文には皇紀(2605年)が使われています。

終戦後19491227日まで行われたインドネシア独立戦争において、日本兵約2000人が残留してインドネシア人と共にオランダと戦い、1000人が命を落としました。

 

1945818日―21日 占守島の戦い

日本がポツダム宣言を受諾したことにより大東亜戦争が停戦した後の818日未明、一方的に日ソ中立条約を破棄したソ連軍は、武装解除中であった占守島へも奇襲攻撃をしました。

91師団は日魯漁業の約400名の女子工員を船で北海道へ逃がし全員が無事到着しました。

821日、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅するところでしたが、第五方面軍司令部から停戦命令が届き戦闘が終結しました。

死傷者はソ連軍3000名に対し日本軍700名、戦いは日本が勝利しました。

ところが、武装解除後占守島に居た日本人約25000名はソ連軍によってシベリアに連行され捕虜になりました。

ソ連はヤルタ会談で千島列島はソ連領にするという密約協定を結んでいましたが、英米が簡単に引き渡すとは考えられず、武力で占領しようとしました。

日本軍がソ連軍を占守島に釘付けにしている間に、アメリカ軍が北海道進駐を完了させました。

ソ連はその後、「北海道の分割統治の要求」を行っています。

千島列島がソ連に占領されていれば北海道まで侵略されていたと考えられます。

朝鮮半島の様に日本が南北分立していたかもしれません。

 

1945820日 真岡事件

終戦直前の88日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、終戦後の820日、南樺太への違法な侵攻により、9人の真岡郵便局の女性職員が自決しました。

 

194592日 軍艦ミズーリ号上で、降伏文書の調印式がありました。

日本の全権大使は重光葵外相でした。

 

194592日 ベトナム独立記念日 ベトナム、フランスから独立

 

1945108日-1947415日 マニラ軍事裁判

山下奉文陸軍大将以下212名が起訴され、177名が有罪となりました。

山下奉文は、シンガポール陥落の際イギリスのパーシバル将軍に『イエスかノーか』で降伏を迫り、マレーの虎と恐れられていました。

山下大将の弁護人フランク・リールは『祖国を愛するいかなるアメリカ人も消し難く苦痛に満ちた恥ずかしさ無しには、この裁判記録を読むことは出来ない・・・。我々は不正であり、偽善的であり、復讐的であった』と書いています。

この裁判は極東国際軍事裁判の前哨戦となりました。

 

1945830日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥厚木飛行場に着陸

マッカーサー元帥は到着のその日のうちに東京裁判の被告たちの逮捕を命じました。

WGIP(戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画)によって東京裁判、思想や言論の管理、出版物の検閲、焚書、情報統制、教職追放、公職追放などが行われました。

占領中の1945年~1951年までにアメリカ兵に殺された日本人は4000人、強姦された婦女子は記録されているだけで20000人に及びましたが、日本の警察はアメリカの犯罪を捜査、検挙することも出来ず、マスコミも報道を禁じられていました。

戦前から日本にいた一部の朝鮮人は駅前などの一等地を不法に占拠し、不逮捕特権を得、犯罪を繰り返しました。

当時の警察はGHQの統治により、拳銃を携帯できなかったため、武装した朝鮮人を逮捕することが難しく、警察署が襲撃されたり、殺害されたりする事件が頻発しました。

また、GHQの政策により経済基盤を失った11の宮家が皇籍を離脱しました。

 

19451011日 五大改革

マッカーサー元帥が幣原内閣に命じた改革で、『秘密警察の廃止』『労働組合の結成奨励』『婦人参政権』『教育の自由化』『経済の民主化』という内容でした。

『経済の民主化』の為に『財閥解体』と『農地改革』が行われました。

農地改革により小作農は土地を持てましたが、農地が細分化され、生産効率が悪くなり、食料自給率の低下にもつながりました。

農地の転売にも制限が無かったため、農地が潰れて宅地となり、農地の減少にもつながりました。

それにより地主が財力を失い、神社が荒廃していきました。

 

19451024日 国際連合発足

二度と戦争を起こさないという目的で連合国が設立しましたが、常任理事国のアメリカとソ連の冷戦時代が始まりました。

マンハッタンの国連本部用地は、ロックフェラー2世による850万ドルの出資によって購入されました。

 

19451215日 神道指令

GHQから出された神道指令は、国家と神道の厳格な分離を定め、公的な財産援助を禁止しました。

 

194653-19481112日 極東国際軍事裁判(東京裁判)

A級戦犯7名、BC級戦犯約1000名が死刑判決を受け、19481223日、当時の皇太子の誕生日に処刑されました。

敗戦国の戦時指導者を裁く事は国際法違反でした。

イギリスの内閣官房長官であったハンキー卿は『東京裁判は世界人権宣言の規定と相いれず、国際法を退歩させた』と批判しています。

「戦争による殺人が犯罪になるのなら、なぜ原爆投下した者がそれを裁くことができるのか』といったブレイクニー弁護人の通訳は打ち切られました。

全被告人を無罪とした『パール判決』はGHQによって一般には知らされませんでした。

そしてパール判事は、この裁判は事後法による裁判であり、その目的は、復讐心の満足と、勝利者の権力の誇示にあると述べ、東京裁判の不正義を訴えました。

 

194611日 新日本建設に関する詔書 発表

GHQに所属するCIE(民間情報教育局)が「軍国主義」などの考え方を一掃するという名目で、天皇自らその神格性を否定する詔を天下に発布出来ないものかと原案を作成しましたが、昭和天皇は原案を了承せず、「五箇条の御誓文」を冒頭に加えました。

幣原喜重郎首相が英訳してGHQの承認を得ました。

昭和52823日、記者会見の席上で昭和天皇は「御誓文を入れることが実はあの時の一番の目的なんです。

神格とかそういうことは二の問題であった。

・・・民主主義を採用したのは、明治天皇の思し召しである。しかも神に誓われた。

そうして「五箇条の御誓文」を発して、それが元となって明治憲法が出来たんで、民主主義というものは決して輸入ものではないということを示す必要が大いにあった」と発言されました。

五箇条の御誓文を拠り所とした「天皇の戦後復興宣言」でした。

 

194674日 フィリピン独立法承認 フィリピンがアメリカから独立

 

1946113日 日本国憲法発布 (主権国民、戦争放棄、基本的人権)

GHQ占領軍の手で専門家が一人も在席しない中僅か1週間で作られました。当初の案は自衛戦争まで放棄するものでした。

占領下の憲法改正は国際法やポツダム宣言に違反するものでした。

GHQは日本側の「松本案」を拒否し、もしこの改正案を受け入れなければ「天皇の御身柄を保障することはできない」と脅し、さらにB29が爆音を響かせ3発目の原爆を投下する用意があることを誇示し圧力を掛けました。

吉田茂首相の側近であった白洲次郎は「今に見ていろ」という気持ちを抑えきれず、「ひそかに涙す」とメモを残しています。

屈辱と怒りの中、断腸の思いで受け入れたGHQ案であると言えます。

日本国憲法がアメリカ製であるということは占領が解除されるまで、一般の国民に知らされることはありませんでした。

 

19476月8日 日本教職員組合(日教組)設立

GHQ占領下でマルクス主義歴史家の羽仁五郎が初代代表となりました。平和教育と称して自虐史観を刷り込んでいます。

 

1947815日 インド独立記念日 インドがイギリスから独立

 

1947年9月 タヴィストック研究所設立(イギリス)

 

1947年 アメリカ中央情報局(CIA)設立

トルーマンによって設立されました。

日本では岸信介、正力松太郎、児玉誉士夫、笹川良一などがエージェントとして協力しました。

自由民主党の資金を提供し、親米化に方向づけました。

 

1948514日 イスラエル建国

聖地への帰還を唱えた宗教的シオニズム運動とは別に、1862年モーゼス・ヘスは反ユダヤ主義への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えました。

これが政治的シオニズムと呼ばれています。

1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議が行われ、世界シオニスト機構が設立されました。

当初ユダヤ人国家の候補地としてパレスチナにこだわってはいませんでしたが、『シオンなきシオニズム』はあり得ないとパレスチナ以外の選択肢は存在しなくなりました。

20世紀に入り、ユダヤ人のパレスチナへの入植が始まると、アラブ人との衝突が起き始めました。

戦後、国際連合によってパレスチナ分割決議が可決され、イスラエルが建国されましたが、その後アラブ諸国との泥沼の戦争に突入することになります。

 

1948619日 教育勅語廃止

18901030日に発布された教育勅語はGHQの議会への圧力によって廃止されました。

日本は道徳を軽視した偏った教育体制になっていきました。

 

194944日 NATO北大西洋条約機構設立

第二次世界大戦後、資本主義を代表するアメリカと社会主義を代表するソ連との対立が始まりました

ヨーロッパの資本主義国がソ連などの社会主義を食い止める軍事同盟NATOを設立しました。

対してスターリンは東ヨーロッパ諸国を集めてワルシャワ条約機構を設立しました。

両陣営の境界は『鉄のカーテン』と呼ばれ東西冷戦が激化し核開発競争も激しくなりました。

 

1949101日 中華人民共和国成立

蒋介石率いる国民党に勝利した中国共産党の全国統一によって、毛沢東を主席として中華人民共和国が成立しました。

 

1950625日 朝鮮戦争勃発

赤化統一を目指す北朝鮮の金日成がソ連と中国の支援を受け38度線を越えて侵略をしかけました。

南の李承晩はアメリカ軍を中心とする国連軍の支援を受けていました。

連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島を、大戦終結後、自由独立の国とすることを発表したにも関わらず、19452月ヤルタ会談の極東秘密協定で米英中ソによる朝鮮の信託統治が合意されました。

194588日ソ連、対日参戦により満州国に侵攻したソ連軍は813日に日本領朝鮮の清津市に上陸、アメリカは1945412日大統領に昇格したトルーマンの反共主義の下、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握される事を恐れ、ソ連に対し南北分割占領を提案しました。

 

195198日 サンフランシスコ講和条約調印 日米安全保障条約締結 吉田茂内閣総理大臣

朝鮮半島の社会主義勢力の日本に対する防壁として、日本と連合国側48か国の間に『サンフランシスコ平和条約』が結ばれました。

サンフランシスコ講和条約によって占領軍の撤退が決まりましたが、朝鮮戦争の最中であることもあり、軍隊を持たない日本は安全保障上、危機的状態となります。

そこで講和条約の第六条『二国間協定により、引き続き駐留を容認される国も存在できる』という但し書きにより、アメリカが日本の如何なる場所にも基地を置くことが出来、内乱が起きた時にはアメリカ軍が出動できるという日米安全保障条約を結びました。

しかし、アメリカが日本を防衛するという内容はありませんでした。

 

1952118日 李承晩ライン

アメリカの支援を受けた韓国初代大統領李承晩は、国際慣例を無視して、日本海に国境線を引き、日本漁船を拿捕して竹島を不法占拠しました。

1965年の日韓基本条約締結までに拿捕された日本漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者44人で、抑留された漁民は残虐な拷問を受けました。

 

1953年 奄美大島諸島返還

 

1957831日 マラヤ連邦結成 マレー半島がイギリスから独立

 

1954719日 アメリカ、余剰農作物処理法成立

日本の学校給食に脱脂粉乳と小麦粉が大量に導入される。

 

1955418-424日 第一回バンドン会議(アジア・アフリカ会議)

欧米列強の植民地支配から独立したアジアとアフリカの29カ国(当時の世界人口54%)によりインドネシアのバンドンで行われました。

史上初のアジア人とアフリカ人による会議で、植民地主義や人種差別をなくし平和を目指すことが話し合われ、平和十原則を定めました。

バンドン会議における意義は次の4点に集約されます。

1.反帝国主義、反植民地主義、民族自決の精神

2.アメリカ(西側諸国)、ソ連(東側諸国)のいずれにも属さない第三の立場を貫こうとする基本的指向

3.アメリカ、ソ連の対立を緩和する立場(バランシング・ブロック)を作る契機となった

4.会議において「世界平和と協力の推進に関する宣言」を採択。これは大東亜共同宣言の流れを汲むものと言えます。

 

195511-1975430日 ベトナム戦争

インドシナ戦争後、南北に分裂したベトナムで、アメリカを盟主とする資本主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義陣営の間で冷戦を背景として代理戦争が行われました。

 

19561019日 日ソ共同宣言

ソ連は194588日、日ソ中立条約を破棄し宣戦布告し、満州、朝鮮、南樺太、千島列島などを占領しました。

日本はアメリカに服属していたため、日ソの外交ルートは断絶していましたが、日ソ漁業条約などを経て国交再開への道筋がつけられました。

ソ連は平和条約締結後に歯舞、色丹を返還するという約束をしていましたが、未解決のままです。

 

19561212日 日本の国際連合加盟承認

 

1958年 EECヨーロッパ経済共同体設立

 

1960619日 日米安保改正調印 岸信介首相

アメリカが有事の際に日本を防衛することや、新たな基地の設置が不可能となることなどが盛り込まれた改正でした。

コミンテルンは日本共産党や、労働組合、学生団体を扇動し、アメリカとの戦争に巻き込まれるという世論が形成され、『安保改正反対』の運動が起こりました。

安保改正が成立する当日には33万人のデモ隊と15万人の警察官が衝突しました。

 

1961813日 ベルリンの壁建設

冷戦下で東西に分裂したドイツでは、東側から西側へ人口流出が続いたため、東ドイツは自国の体制を守るために、東西ベルリン間の通行を遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で囲み、コンクリートの壁を作りました。

1989年ベルリンの壁は東ドイツ政府の発表によって崩壊しました。

 

19621016-1028日 キューバ危機

ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚し、アメリカがカリブ海でキューバの海上封鎖を実施しました。

米ソの緊張が高まり、核戦争寸前まで達しました。

冷戦のピークとなりました。

 

19631122日 J.Fケネディ大統領暗殺

テキサス州ダラスで暗殺された後、ケネディ米大統領令により財務省から発行された総額42億ドルの政府紙幣は速やかに回収されました。

 

196482日 トンキン湾事件

北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナムの哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射し、これを機に米・ジョンソン政権がベトナム戦争に介入し北爆を開始したとされています。

しかし、1971NYタイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手。

このトンキン湾事件は米国が仕組んだと暴露しました。

1995年には当時の国防長官ロバート・マクナマラも『北ベトナムによる攻撃はなかった』と告白しています。

 

19641010日 東京オリンピック 

これに伴って101日東海道新幹線が開通しました。

 

1965622日 日韓基本条約 日韓請求権・経済協力協定

韓国の朴正煕(ぱくちょんひ)大統領は、韓国経済回復のために日本の支援を希望し、国交が回復しました。

戦争の賠償問題について日本が経済支援を行うことで解決し、日本からの多額の経済援助が行われ韓国経済は立ち直っていきました。日本は併合時代に韓国内に残した53億ドルの資産の他に、有償無償合わせて11億ドルの援助をしました。

新たな支援は、韓国の国家予算の2倍以上になるものでした。

日本は韓国と戦争をしていませんので、賠償義務はありませんでしたが、ソ連、北朝鮮、中国などに対する安全保障的観点からも韓国との国交回復が必要でした。

韓国政府は併合時代の補償を一括して受け取り、個人への補償をせず、未だに個人賠償を要求してきています。

 

1966516日-1976年 文化大革命

毛沢東が提唱した政治運動で、死去した76年まで続きました。

1958年から毛沢東が推し進めていた大規模施設、農業増産を目指した大躍進政策が行き詰まりを見せ、2000万人の餓死者を出し、毛沢東への支持が衰え始めていました。国家主席の地位を失ってから毛沢東は軍部の支援を受け、学生運動や大衆を扇動しました。

その結果内部抗争が激化し、「造反有理」を掲げた社会運動が起き、泥沼化しました。

毛沢東語録が数億冊印刷され、紅衛兵や紅小兵が携帯するようになり、集会で掲げられるようになりました。

『毛沢東語録』は、30か国以上に翻訳されるベストセラーとなりました。

毛沢東語録の『・・・革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である』がスローガンとなって多くの国民が暴力に走りました。

大量虐殺により2000万人の国民が亡くなりました

宗教的な貴重な文化財なども破壊されました。

これを報道した新聞社や通信社は北京から追放されましたが、朝日新聞社だけが報道をせず残留しました。

 

1967年 EC(欧州共同体)発足

EECよりもさらに政治的な結びつきが強くなりました。

 

1968年 日本の国民総生産が世界第二位となる

 

1969-1970年 国連による尖閣周辺の海洋調査

尖閣諸島の海底に石油資源があることが発表されると、中国は領有権を主張し始め実行支配に動き始めました。

 

19686月 小笠原諸島返還

 

1969年 国民総生産(GNP)世界第二位となる

 

1971815日 ニクソンショック(ドルショック・ドル危機)

60年代に欧州や日本の輸出が増え、ドル過剰の状況となったため、各国はドルをアメリカの金と交換し、アメリカの金保有高は急速に減少しました。

そのため、金価格は高騰し、ドルは下落しました。

そこでニクソン大統領がドルと金との交換停止の措置をとることにより、ドルの価値が急落しドルを基軸通貨とした国際通貨制度が崩壊しました。

この結果ドルの切り下げが行われました。

1944年のプレトン・ウッズ協定によって、各国の為替レートを固定し、ドルと金との交換をアメリカ政府が保証することによってドルを基軸通貨として経済は安定成長を続けてきましたが、アメリカは冷戦による戦費が負担となり、アメリカが金に裏打ちされたドルによって世界経済を支える事は不可能になりました。

日本は1ドル360円という円安によって輸出産業を発展させていましたが、アメリカの一方的なドル切り下げにより高度経済成長から低成長へと時代が変わりました。

これ以降、日本は変動為替制で円相場に一喜一憂することになり、日本にとってこの815日は、2度目の敗戦となりました。

 

1972219日 あさま山荘事件 

共産主義革命を実現させようとする連合赤軍による立てこもり事件です。10日間に亘る籠城の末人質を救出し、犯人5人を逮捕しましたが、警官2名が死亡、26名が重軽傷を負いました。連合赤軍の他の14名のメンバーは革命の名のもとに集団リンチにかけられ埋められました。

 

1972515日 沖縄本土復帰

アメリカはベトナム戦争介入によって沖縄の米軍基地の重要性が増していました。

10年ごとに締結される日米安保条約を有利に継続するために、沖縄返還を条件にしました。

沖縄返還には密約がありました。

それは、「核を持ち込んで貯蔵する、返還に関する費用は日本が持つ、米軍基地は現状維持する」というものでした。

沖縄米軍基地は、南シナ海、東シナ海、太平洋に進出する中国と、核ミサイルの開発に成功した北朝鮮に対する抑止力となっています。

 

1972年 日中国交正常化 田中角栄・毛沢東主席、周恩来首相

これを機に台湾との外交が解消されました。

日本はこれ以降中国へ3兆円を超えるODAを実施しています。

番いのパンダ、カンカン・ランランが上野公園に送られパンダブームが起こりました。

 

1972611日 日本列島改造論を発表、田中角栄首相

1973年 中国 西沙(パラセル)諸島占領

アメリカ軍がベトナムから撤退すると中国は西沙諸島を占領しました。

 

197310-19743月 オイルショック

4次中東戦争勃発によりアラブ石油輸出機構(OAPEC)が石油戦略により石油の値段を70%も引き上げました。

さらに翌年128%の値上げをし、3か月で4倍の値上がりになりました。

2000年前に古代ローマ帝国に滅ぼされ、1948年にパレスチナの地に突然建国されたイスラエルはアラブ人にとっては侵略者でしたので、同年に第一次中東戦争が起こりました。

アラブ諸国を支援するソ連と親イスラエル国資本主義陣営の戦いとなりました。

4次中東戦争ではアラブ諸国がイスラエルに敗れ、アラブ諸国は親イスラエル国には石油禁輸宣言をし、石油が武器となりました。

石油の高騰により、生産力が低下し物価上昇を齎し、マスコミの扇動によりトイレットペーパーや洗剤の買い占めが起こりました。

 

1977928 ダッカ日航機ハイジャック事件

武装した日本赤軍グループ5人に日航機がハイジャックされた事件です。

同機はバングラデシュの首都ダッカにあるジア国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金として600万ドルと、日本で服役および勾留中の9人の釈放と日本赤軍への参加を要求しました。

これに対して福田武夫首相が「人命は地球より重い」と述べて、多額の身代金の支払いおよび超法規的措置として収監メンバーなどの引き渡しを決断しました。

アメリカ人の人質から殺害するという条件を受けたため、アメリカへ配慮したという見方もあります。

 

1978812日 日中平和友好条約 福田赳夫首相

 

19781-19792月 イラン革命

ホメイニ率いるイスラム原理主義勢力がパーレビ王朝を倒し、親米国イランはイスラム教国家であるイラン・イスラム共和国となりました。

革命の混乱を避け国際石油資本が撤退した事を受け、石油国有化に踏み切り資源保護の立場を取り、石油輸出制限を打ち出しました。

そのため石油の国際価格が急上昇し第二次石油危機が起こりました。

 

1980年-1988年 イラン・イラク戦争

独裁政権を強いていたイラクのフセインは、ペルシャ湾岸の石油を巡る対立や、イラン革命によってイラクにイスラム原理主義が波及することを恐れ戦争が勃発しました。

アメリカはイランが共和国になったことによってアメリカの石油市場に影響を与えると考えたため、イランを攻撃する口実としてイラクを支援しました。

アメリカ、イギリス、フランス、ソ連などは大量の武器を売って儲けました。

 

1982年 教科書検定による近隣諸国条項

歴史教科書に於いて、中国・華北への侵略を進出と書き直したことが発端となり、中国、韓国が抗議して外交問題に発展しました。

近隣諸国条項の追加により、国家間の歴史認識の溝を埋めるため、近隣のアジア諸国との友好親善に配慮すべきという基準が定められました。

 

1985812日 JAL123便墜落事故

JALの職員だった青山陶子氏の著書『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』によりますと、自衛隊のファントム機が追跡していたという証言もあり、事故ではなく、撃墜だったと書かれています。

 

1985922日 プラザ合意 

ニューヨークのプラザホテルで先進5か国、アメリカ、フランス、イギリス、西ドイツ、日本の代表が集まって行われ、ドル安共同歩調をとることになりました。

レーガン政権下のアメリカ経済を救済するため、ドル高を是正することに合意しました。

協調介入により1ドル240円から一気に200円にドル安円高となり、アメリカの輸出増大を齎しました。

それ以来円高不況が続いています。

 

19871019日 ブラックマンデー

香港を発端に世界的株価大暴落が起きました。

 

1989415-64日 天安門事件

自由と民主化を求める学生が天安門広場に集まり、主張を訴えていましたが、人民解放軍が出動しました。

公表されていませんが、銃弾が飛び数万人以上の学生が戦車にひき殺されました。

 

1990103日 東西ドイツ統一

ソ連のペレストロイカの影響で社会主義政府が次々と倒れました。

1989年ベルリンの壁が崩れ翌年ドイツ連邦共和国にドイツ民主共和国が編入されました。

 

1991117日-228日 湾岸戦争

イラク、クウェート、サウジアラビアなどのペルシャ湾周辺の地域で起こりました。

イラン・イラク戦争でイラクを支援したアメリカでしたが、戦費の返済に対して寛容ではなく、財政が疲弊していたイラクに対して食糧や工業部品の輸出を制限するなど締め付けをエスカレートさせました。

イラクは石油を高値で売るしかありませんでしたので、石油を大量に保有し掘削している隣国クウェートが石油価格を低下させているとして抗議しますが、交渉は決裂しました。

そしてクウェートが国境を越えて石油を掘削しているなどの事実が発覚し、限界に追い込まれたイラクはクウェートに侵攻しました。

クウェートに立てこもるイラクに対して、アメリカを中心とした多国籍軍が攻撃を開始し、イラクは撤退しました。

アメリカが日本に対して武力参戦を要求したため、日本は最終的に物資援助、地雷除去等により多国籍軍に貢献し、130億ドルの資金を出し資金援助という形で参加しました。

しかしクウェート政府が出した感謝決議の対象国から外されました。

 

19913-199310月 バブル崩壊

不動産融資の規制や、地価税の導入、公定歩合の引き上げによって、土地や株価が暴落し、銀行や、証券会社、保険会社などの倒産が相次ぎました。

これ以来経済の停滞が続き「失われた20年、30年」とも言われています。

 

19911226日 ソ連崩壊

ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)でソ連が民主化へと進み、ゴルバチョフ大統領辞任に伴い、ソビエト連邦が解体され、CISという緩やかな国家同盟となりロシア連邦が成立しました。

 

1992年 中国 ミスチーフ環礁を占領

アメリカ軍がフィリピンから撤退すると中国はミスチーフ環礁を占領し、南シナ海は自己領だと宣言しました。

 

1992年 国連平和維持活動(PKO)協力法が成立

 

1993111日 EU発足

 

199384日 河野談話 

従軍慰安婦問題で日本軍の関与を認め「お詫びと反省」を表明しました。

 

1994年 年次改革要望書

宮沢喜一首相とビル・クリントン米大統領の会談で決まりました。要望としては、建築基準法の改定、法科大学院の設置、著作権の保護期間の延長や著作権の強化、裁判員制度、独占禁止法の強化、労働者派遣法などになります。

 

1995815日 戦後50周年談話 村山談話

「植民地支配と侵略によって諸国民に多大な損害と苦痛を与えた」と発表しました。

 

199771日 香港、イギリスから中国へ返還

香港はアヘン戦争により、99年の租借が決まりイギリスの統治下に置かれていました。

 

199861日 欧州中央銀行設立(ECB

ユーロ圏19か国の金融政策を担う中央銀行がドイツ連邦銀行をモデルに設立されました。

 

2001911日 アメリカ同時多発テロ

ニューヨークのツインタワービル、ペンタゴンなどがイスラム原理主義者によるハイジャック機によって激突されたとされていますが、アメリカの自作自演だった事が解ってきています。

ブッシュ大統領は、イスラム原理主義者のテロ犯を匿っているとしてアフガニスタンの攻撃を開始し、『アメリカ防衛のために、予防的措置と先制攻撃が必要』と対イラン、イラク、北朝鮮を国家戦略としました。

これをもとにイラクに大量破壊兵器があるという疑惑でイラク戦争に踏み切りますが、大量破壊兵器はなく、開戦の正当性が疑われています。

その後アメリカは愛国法(反テロ法)を制定し、プライバシーの制限、大統領権限による国家安全保障局の盗聴、令状抜きでの連行、収監、拷問が行われるようになり全体主義への道を歩み始めました。

 

2003年 イラク戦争 

大量破壊兵器を隠しているとしてアメリカはイラクに進軍し、日本は自衛隊を派遣しました。

 

2005422日 バンドン会議50周年を記念する首脳会議

直前に中国の圧力により小泉純一郎元首相は村山談話を引き継ぐ声明を発表しました。

 

2008915日 リーマン・ショック

アメリカ史上最大の倒産が興りました。リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻し、連鎖的に世界規模の金融危機が発生しました。

サブプライムローンなどの不良債権が焦げ付き、ブッシュ大統領は7000億ドルの支援を決めました。

日経平均も大暴落しショックの前日は12000円台でしたが、翌月には6000円台まで下落しました。

 

2011311日 東日本大震災

 

2014223日― クリミア危機

ウクライナ領土と定められていたクリミア半島(クリミア自治共和国)をロシアが軍事介入によってロシア領に併合し、ロシアとウクライナ間の政治危機が起こりました。

 

20141223日 朝日新聞が従軍慰安婦問題を誤報だったと訂正する

 

2015422日 バンドン会議60周年を記念する首脳会議

ジャカルタで行われ109カ国の首脳が招待され90カ国以上の国が参加しました。

安倍首相は「先の大戦の深い反省」を元に「国際紛争は平和的手段によって解決する」原則を守り続けてきたと述べました。

 

2015814日 安倍首相70年談話

植民地支配から永遠に訣別しなければならないとしながらも、先の大戦については『痛切な反省』『心からのお詫びの気持ち』を表明し、『戦場の陰で深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいた』とも言及しました。

 

2018年 対中ODA終了

中国に対して40年続けてきた政府開発援助を終えました。

 

2018514日 イスラエルの米大使館、エルサレムに移転

 多くの国はテルアビブを首都とみなしていますが、2018514日のイスラエル独立宣言70周年記念日にトランプ米大統領は、大使館をエルサレムに移転しました。

第三次中東戦争でイスラエルが獲得した土地をアメリカが公認することになりました。