● 尋常小学修身書 児童用. 巻1
● 尋常小学修身書 児童用. 巻2
● 尋常小学修身書 児童用. 巻3
● 尋常小学修身書 巻4
● 尋常小学修身書 巻5
尋常小学修身書 巻五
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹
ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心
ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精
華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝
ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ
徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ
重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天
壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良
ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰ス
ルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ
倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外
ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳
ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
尋常小学修身書巻五 児童用
第一課 我が国
昔天照大神は御孫瓊瓊杵尊をお降しになつて、此の国を治めさせられました。尊の御曾孫が神武天皇であらせられます。天皇以来御子孫がひきつゞいて皇位におつきになりました。神武天皇の御即位の年から今日まで二千五百八十余年になります。此の間、我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになつて栄えて来ました。御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は祖先以来、天皇を親のやうにしたひ奉つて、忠君愛国の道に尽しました。世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。』我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて我が帝国のために尽さなければなりません。
第二課 皇太后陛下
皇太后陛下は御幼少の頃から御しつそにあらせられ、御服装などもぜいたくなものは決してお用ひにならず、学校にはたいてい御徒歩でお通ひになりまLた。又大そうおいつくしみ深くあらせられ、人々をおあはれみになりました。
皇后におなりあそばしてからは、我が国の産業に御心をお用ひになり、宮中で御みづから蚕をおかひになり、博覧会や共進会などにも、たび/\行啓になりました。又諸種の学校に行啓になつて、教育が進歩するやうにおはげましになりました。
陛下は博愛慈善の事業に深く御心をお用ひになり、日本赤十字社組合には毎回行啓あらせられて、赤十字社事業が発達するやうにおのぞみになりました。』大正十二年九月関東地方に大地震があつた時、陛下は日光の御用邸に御滞在中でございましたが、罹災者の身の上を大そう御心配あそばされ、間もなく東京に還啓あらせられ、三日にわたつて、市内の病院や救護所などを御見舞になつて、罹災者をあつくお慰めになりました。
御歌
おほとのをたゝく霰の音にしも
かりやのよるの寒さをぞおもふ
第三課 忠義
後醍醐天皇の御代に、鎌倉の北條高時が天皇の仰に従ひませんので、天皇は高時を討たうとなさいました。高時は早くもそれを知つて、大軍を京都にのぼらせました。そこで天皇は山城の笠置山に行幸になりましたが、地方の豪族も賊軍の勢に恐れてお味方申し上げる者がありませんので、大そう御心配になりました。
楠木正成は河内の金剛山の麓に住んでゐましたが、天皇の御召をうけ、此の上もない武士の名誉と、勇んで笠置の行在所へまゐりました。天皇は大そう御喜びになり、「高時を討つて天下を太平にせよ。」と仰せつけられました。正戌ほ詔をありがたくおうけして、「賊軍が強くても、謀を用ひて討てば、勝てないことはございません。しかし勝負は戦の習でございますから、たまに負けるやうなことがありましても、御心配には及びません、正成さへ生きて居りましたら、御運はきつと開けるものと思し召せ。」と、たのもしく申し上げて御前をさがりました。
正成は河内へ帰つて赤坂城をきづき、僅か五百ばかりの兵で、まつ先に勤王の旗をあげました。さうして天皇をお迎へ申し上げようとしてゐるうちに、賊軍は笠置を攻落し、更に赤坂城におしよせて来ました。正成は度度それを打破つたが、兵糧がつきたので、城を焼いて、身をかくしました。間もなく、金剛山に千早城をかまへて、千人足らずの兵で立てこもり、おしよせて来た賊の大軍をさん/゛\に苦しめました。その間に正成の旗あげを聞いて、お味方申し上げる者が次第に多くなつて、高時はとう/\打滅されました。
天皇が隠岐から京都へおかへりになる時、正成は兵を引きつれて兵庫までお出迎へ申し上げました。天皇は正成を御側近くお召しになつて、その忠義をおほめになりました。正成は、「強敵を破ることが出来ましたのは、全く陛下の御徳によることと存じます。」とお答へ申しました。それから天皇は正成に前駆をさせて、めでたく京都へおかへりになりました。
第四課 挙国一致
明治三十七八年戦役は、我が大日本帝国が国家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戦つて、国威を世界にかゞやかした大戦争であります。明治三十七年二月十日に宣戦の詔が下ると、国民は皆一すぢに大御心を奉体して、国の為に尽さうとかたく決心しました。
出征軍人の元気は盛なもので、忠勇の美談はあげつくされない程ありました。病をおし、傷をかくして召集に応じた在郷軍人もあり、三人の兄が皆戦死して残つた末の弟が志願兵になつた家もありました。戦地では雨霰と飛来る弾丸の中で、落ちつきはらつて自分の務を尽す者もあれば、敵弾のために負傷しても、内地へ送りかへされることを拒んで、「ぜひ今一度戦線に立たせて下さい。」と願ふ者もありました。
戦場に出ない国民も皆一致して忠君愛国の誠を尽しました。働きざかりの壮丁が出征した後は、老人も婦人も少年も皆大決心で、家業につとめ、倹約を守つたので、全国の貯金の高は却つて戦前よりも増しました。戦費のために租税は平時よりも大そう多くなつたが、国民は喜んで負担して納税を怠る者などはありませんでした。軍人が出征する時には、各地の人々はまごころをこめて迭り迎へをしました。戦地へは慰問袋や手紙を送り、軍人の家族・遺族にはいろ/\と行届いた世話をしました。出征者の妻は心を引きしめて、家事をとゝのへ、子供を育てて、戦地の夫に心配をかけないやうにしました。又身分の高い婦人は自分で繃帯を造つて、負傷者に送り、或は進んで篤志看護婦となつて、親切に傷病者の世話をしました。
明治天皇御製
国を思ふ道に二つはなかりけり
軍のにはに立つも立たぬも
第五課 公民の務
郷里を愛するのは人の情であります。我等が朝夕見なれてゐる山や川は、どこへ行つても忘れることが出来ません。我等は他日市町村の公民となつて、我が愛する郷里を一そう楽しいよい所にしませう。
どの市町村も市役所又は町村役場を置き、学校を建て、道路を造り、橋を架けなどして、そこに住む人々の便益をはかつてゐます。
かやうに公共の便益をはかるためには、たくさんの費用が入ります。其の費用は市町村民が分担するのが当然です。市町村税を納めるのはその為です。税は進んで納むべきものであつて、もし納税の期限におくれると市町村の仕事の妨になります。
市町村の規則を作つたり、予算をきめたり、教育・勧業・土木・衛生等の仕事をしたりするについて、いろ/\評議するために、市町村民は自分等の中から、市町村会議員を選挙します。市町村会議員はかやうに公共の事をきめる大切な役でありますから、これを選挙する人ほよく考へて、よい人を選び、又選ばれて議員となつた人は、熱心に公共の幸福を増すことにつとめなければなりません。
又市町村の代表者となつて公共の事務をとり行ふ者は市町村長です。市長は市会で、町村長は町村会で選挙します。選ばれて此の地位につく人は、それを名誉と思つて、忠実に市町村のために尽す心掛が大切であります。
我等は将来、公民となり、我が市町村のことは我がことと心得て、納税・選挙の務をはたし、進んで産業を盛にし、風俗をよくするなど、協同一致して公共のために尽し、我が郷里をりつぱな市町村にしませう。
第六課 公益
古橋源六郎は三河の稲橋村の人で、家は代々酒造を業としてゐました。我が国に始めて市制・町村制が実施された時、村長に選挙されました。
後に稲橋村が武節村と組合になつてからも組合長に選挙され、死ぬまで引きつゞいて、この職をつとめ、公益のために力を尽しました。
源六郎は三河の土地が馬を飼ふに適してゐることを知つて、奥羽産や外国産の良い馬を数十頭飼ひ、馬の改良をはかりました。ところが、「改良馬は大きいばかりで、女や子供が使ふにも困るし、其の上にのろくて役に立たない。」と悪口を言ひふらす者がありました。しかし源六郎は馬の市場を開きなどして、改良馬が大きくて力も強い上に、おとなしくて、使ひやすいことを世間に知らせたので、悪口を言ふ者がなくなりました。其の後、組合をつくつてだん/\事業をひろげて行くうちに、一時に馬のねだんが下つて大損をしました。源六郎は長い間、昼夜苦心してその回復をはかつたので、とう/\損をとりかへすことが出来ました。三河に良い馬をたくさん産するやうになつたのは源六郎の力であります。
源六郎は又父の志をついで、此の地方の人々に養蚕を勧めて、繭の産額が村の内だけでも、年々八九万円以上になるまでにしました。又自分で多くの費用を出して山に木を植ゑさせました。それが今ではりつぱな森林になつてゐます。源六郎は農事の改良をはかる為に、まだよそにないうちに村内に農会を設けて、その発達に力を尽しました。農会はそれからだん/\全国にいきわたりました。
源六郎は又村に勤倹貯蓄の風を興さうとつとめました。或時、村の人々と申し合はせて毎日一厘づつ積立てる一厘貯金といふことを始めました。それを賛成する者が多く、後には全村で二万円以上の貯金となりました。又村に悪い風がはいつて来て、仕事を嫌つて遊ぶ者や借金に苦しむ者が出来ました。源六郎はそれを心配して、村の人々と規約を設け力をあはせて、この悪い風をなほすことに骨折つたので、村の風儀もよくなりました。
第七課 衛生
伝染病の流布するのは、多くは人々の衛生に関する注意が足らないところから起るものです。伝染病については、国家も取締をしてゐるけれども、人々が公衆のためを思つて、自分々々で気をつけなければ、とても十分に其の流行を防ぐことは出来ません。
伝染病にはコレラ・チフスなどのやうに急性のものがあり、結核・トラホームなどのやうに慢性のものもあります。伝染病の外に寄生虫病といつて、虫が体内に宿つて起る病気もあります。いづれも病毒が外から体内にはいつて、病気を起すものです。例へば飲食物と一しよにはいつたり、呼吸の時にはいつたり、又不潔なものに触れた時にはいつたりします。
伝染病にかゝらないやうにするには、常に身体を強壮にしておくこと、が弟一です。又飲食物に注意し、身体・衣服・住居などを清潔にすることにつとめなければなりません。伝染病の流行する時は、医師や衛生係の注意を守ることが大切です。万一、伝染病にかゝつた時は、すぐに医師の治療を受け、他人にうつさないやうに、十分に気をつけなければなりません。隠して届出をしなかつたり、迷信から医師の診察を受けなかつたり、又全快しないうちに人中へ出たりするのは、大そう危険です。
衛生に関する注意が足らないところから、伝染病にかかることがあると、それは自分の禍であるばかりでなく、公衆に大そう迷惑をかけます。まして自分の不注意から病毒を他人にうつし、大ぜいの人の命をそこなひ、産業を衰へさせるやうになつては、公衆に対して其の罪ほ決して軽くはありません。
第八課 倹約
上杉鷹山は十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来て、十七歳で米沢藩主となり、よい政治をして評判の高かつた人であります。
鷹山が藩主となつた頃は、上杉家には借財が大そう多く、其の上、領内には不作がつゞいて、人民も難儀をしてゐました。鷹山は此のまゝにLておいてはならないと思ひ、倹約をもととして家を立直し、人民の難儀を救はうと決心して、まづ江戸にゐる藩士に其の志を告げました。しかし、藩士の中には鷹山に従はないで、「殿様は小藩にお育ちになつたから、大藩のふりあひを御存じない。」などと言ふ者がありました。鷹山は、少しも志を動かさず、領内に倹約の命令を出し、まづ自分のくらしむきをずつとつゞめて、大名でありながら食事は一汁一菜、着物は木綿ものばかりときめて、実行の手本を示しました。
鷹山の側役の者の父が、或日、在方に行つて、知合の人の家に泊つたことがありました。其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、ていねいに屏風にかけて置きました。主人はふしぎに思つてたづねますと、「此の襦袢は殿様がお召しになつてゐたもので、それを忰がいたゞいて帰つたのを、私がもらつたのです。」と答へました。主人はそれを聞いて、大そう鷹山の倹約に感心し、其の襦袢を家内の人たちにも見せて、いましめました。
第九課 産業を興せ
鷹山は人民の難儀を救ふために、倹約を勧めた上に、なほ産業を興して領内を富まさうとほかりました。荒地を開いて農業をいとなまうとする者には農具料・種籾などを与へ、三年の間、租税を免じました。又命令を出して村々に馬を飼はせたり、馬の市場を開かせたりなどして農業を盛にするたすけとしました。
鷹山は又養蚕を勧めました。領内には、貪しくて桑を植ゑることの出来ない者が多かつたので、自分の衣食の費用の中から、年々五十両づつを出して、桑の苗木を買上げて分けてやり、又は桑を植ゑる者に貸付けてやつて、其の業を励ましました。
なほ鷹山は奥向で蚕をかはせ、その糸で絹や紬を織らせました。又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとひ入れて、其の方法を教へさせました。これが世に名高い米沢織のはじめであります。
なせばなるなさねばならぬ何事も
ならぬは人のなさぬなりけり
第十課 孝行
昔山城の川島村に儀兵衛といふ人がありました。生まれは京都でしたが、生まれるとすぐこの村の貪しい家にもらはれて来ました。十歳の時、養父に死別れ、それから三十九年の間、身体の弱い養母に事へて、一心に孝行を尽しました。
家には少しの田地もないので、儀兵衛は人に雇はれて、農業の手伝などして、やつとくらしを立てました。毎朝早く起きて、母の食物やつかひ水などをそれ/゛\用意して、仕事に出て行きました。仕事がすむと急いで帰つて来て母に安心させ、毎夜湯をつかはせ、又身体をなでさするなど、何事にもよく気をつけていたはりました。』
儀兵衛は貪しい中にも、母だけには着物や食物に少しも不自由させないやうに心がけ、母のたべたいといふ物はすぐにとゝのへ、母のこゝろよくたべるのを見て喜びました。又母の気づかひさうなことは、なるたけ聞かせないやうにし、母の喜ぶことは骨身を惜しまず何でもしました。
人に雇はれて京都や伏見に行き、用事がひまどつて帰りがおそくなることもありました。そんな時には、母は待ちかねて、歩行も不自由なのに、杖をついて半町ばかりも迎へに出て待つてゐます。やがて帰つて来た儀兵衛の顔を見ると、母は大そう喜んで涙を流し、儀兵衛も母の迎をありがたがつて涙をこぼし、二人ともものも言へないで立つてゐます。しばらくして儀兵衛は買つて来た土産を母に渡し、手を引いて家に帰つて行きます。近所の人はこのやうすを見て、誰でも感心しない者はありませんでした。
この孝行のことが時の天皇の御耳にはいつて、儀兵衛は御褒美をいたゞきました。
第十一課 兄弟
伊藤小左衛門は伊勢の室山村の人で、味噌・醤油の製造を業としてゐました。小左衛門に三人の弟があつて、兄弟互に心をあはせて家業に励んだので、室山味噌の評判が世間にひろまりました。
或年、大地震があつて、その倉はたいていつぶれました。その上、雨が長く降続いた為に、味噌・醤油はおほかた腐つてしまつて、さしも繁昌してゐた伊藤の家もにはかに衰へました。世間の人は誰も、「いくら室山の味噌屋でも、もとの身代になることはむづかしからう。」と言つてゐました。小左衛門は三人の弟に、「今から兄弟心をあはせて、少しも他人の力にたよらないで、一生けんめいに家業に励み、三年の後には、きつともとの身代にして見せようではないか。」と相談しますと、弟たちも皆進んで賛成しました。それから兄弟は仕事を手わけして、大ぜいの人をつかひ、一人ほつぶれた倉のとりかたづけにかゝり、一人は味噌醤油の仕込を始め、一人は又遠くへ行つて材木を買集め、小左衛門は全体のさしづをしました。かやうにして四人の兄弟は日夜働いて家業に励んだので、三年たゝないうちに前よりもりつぱな倉が出来、身代ももとの通りになりました。
其の後、小左衛門は製茶・製糸等の業を始めましたが、兄弟はいつも力をあはせて助け合ひ、仕事に励んだので、家は益、繁昌して来ました。
第十二課 進取の気象
小左衛門が製茶・製糸の業を始めたのは、横浜の港が開けた頃で、外国では茶や生糸がたくさんいることに目をつけたからであります。
小左衛門は先づ茶の実を蒔いて、培養のしかたを研究し、製茶の法にも工夫を積んだので、数年の後には、たくさんの茶が出来るやうになりまLた。又其の地方の人人にも茶の木を植ゑることを勧めました。
小左衛門は又桑を植ゑて蚕をかひ、製糸の業を興しました。初は僅か二人の工女を雇ひ、手ぐりで糸をとらせてゐましたが、次第に人数を増して仕事を大きくしました。しかし、手ぐりではどうしてもよい品が出来ないので、機械で糸をとることを思ひ立ちました。そこで機械の使用に熟練した人を雇ひ入れようと思つて、あちこちとさがしたがなか/\ありませんでした。其の上、製糸にけいけんある人たちは、「新しい機械で糸をとるのは、利益が少いから、始めない方がよい。」と言つたが、小左衛門は、「これまでのしかたでは、とても外国にむく品は出来ない。」と言つて、新しい機械をすゑて、生糸を製することを始めました。しかし慣れないので、よい品が出来なくて損をしました。そこで小左衛門は上野の富岡に行つて、製糸法をしらべて帰り、また機械を改め其の数を増して、熱心に仕事に励んだが、やはりよい品が出来ず、また損をしました。小左衛門は進取の気象に富んでゐるから、少しもそれに屈せず、新しい蒸気機械をそなへ、又親類の者を富岡にやつて製糸法を習はせ、一生けんめいに改良をはかりました。かやうに苦心に苦心を重ねた末、とうとう外国人等もほめる程の、よい品が出来るやうになりました。又その為にこの地方の製糸の業もだんだん盛になりました。
第十三課 勤労
伊予の筒井村の農家に作兵衛といふ人がありました。祖先からの借金がたくさんあつたので、その日/\のくらしもなか/\難儀でした。作兵衛は幼い時から、何とかして家の借金を返したいと思つて、一生けんめいに働きました。
十五歳の時に、母は病気でなくなりました。その後作兵衛は朝夕食事の世話をし、昼は父と一しよに田畑を耕しました。又夜おそくまで草鞋を作り、それを軒下につり下げて置いて、往来の人に売りました。その草鞋の丈夫なのと、はき工合のよいのが評判になつて、いつもすぐに売切れました。作兵衛はかやうに夜昼一心に働いたので、村の人は皆、若い者の手本だといつて、ほめない者はありませんでした。
そのうちに家のくらしも次第に楽になり、長い間の借金も残らず返してしまひ、其の上に少しばかりの田地を買ふことが出来ました。其の時の親子の喜はたとへやうもありませんでした。作兵衛は勇んで村役人の所へ行つて、買つた田地を公に自分のものとする手続をしました。村役人たちは作兵衛の買つた田地が悪くて収穫が少いのに、税を納めさせることを気の毒に思ひました。しかし、作兵衛は、「どんな田地でも骨折つて作つたならば、決してよくならないことはありますまい。此の村に荒れた田地の多いのは、私どもの骨折がまだ足らない為だと思ひます。私は出来るだけ働いて、悪い田地をよい田地に仕上げ、村の為になるやうにしたいと思ひます。」と言ひましたので、村役人たちは、作兵衛の心掛に感心しました。
其の後、作兵衛は、はたして其の田地をよい田地に仕上げました。なほ其の上に、よい田地をたくさん買ふことが出来ました。
第十四課 勉学
勝安芳は若い時、西洋の良い兵書を読みたいと思つて、しきりにさがしてゐましたが、其の頃、舶来の書物は少くて、なか/\手に入りませんでした。或日、本屋でふとオランダから新着の兵書を見つけました。見ればなかなか良い本で、ほしくてたまりません。価をたづねると五十両とのことです。安芳は其の頃大そう貧乏で、とてもそんな大金は払へまゼん。家に帰つていろ/\考へた末、あちこちと親類などに相談して、十日あまりもかかつて、やつと其の金をこしらへました。すぐにさきの本屋にかけつけますと、本はもう売れてしまつてゐたので、がつかりしました。しかし、どうしてもそのまゝ思ひ切ることが出来ません。そこで買つた人の名を聞いて、やつと其の家をたづね出し、わけをくはしく話して、「ぜひあの本をおゆづり下さい。」と頼んだが、持主はなかなか聞入れません。「それでは、しばらくお貸し下さい。」と言ふと、「それも出来ません。」とことわられました。安芳はしばらく考へて、「あなたが夜おやすみになつてから後でなりと、どうかお貸し下さいませんか。」と折入つて頼むと、「それ程に御熱心ならば、見せて上げませう。しかし、外へ持出されては困ります。」と言ふので、安芳は次の夜から持主の宅で写させてもらふことにしました。それから毎夜一里半もあるところを通つて、雨が降つても風が吹いても、約束の時刻におくれたことがなく、半年もかゝつて、とうとう八冊の本を写し終りました。其の時、意味の分らないところを持主に問ひますと、持主は、「お恥づかしいことには、私はまだ読終らないので、お答へが出来ません。それにあなたはこれを写して、其の上そんなにくはしくおしらべになつたのは感心です。私のやうな者が此の本を持つてゐても、益のないことですから、あなたに差上げます。」と言ひました。安芳は、「私は写させてもらつたのでたくさんです。二通りは入りません。」とことわつたが、無理にすゝめられるので、とう/\もらひました。安芳はかやうに学問に励んだので、後にはりつぱな人になりました。
第十五課 勇気
安芳は幕府の命を受けて長崎に行き、オランダ人について航海術を学びました。修業がすんでからもつゞいて長崎に留つて、血気盛りの海軍練習生を教へ、九州の近海で、あちこちと航海を試みました。
間もなく、幕府は使をアメリカ合衆国へやることになりました。其の時、使は合衆国の軍艦にのせ、別に日本の軍艦を一そうやるといふうはさがありました。安芳はそれを聞いて、我が航海術の進歩を見せるには、この上もないよい機会だと思つたので、自分の教へた部下をさしづして日本人の力だけで航海をしたいと願ひ出ました。
何分我が軍艦を外国へやるのは始めてのことであり、まだ練習も十分に積まない日本人だけではあぶないと思つたので、幕府は容易に許しませんでした。しかし、安芳があくまで願つてやまないので幕府も遂に其の熱心と勇気に感じて、咸臨丸といふ小さい軍艦で安芳等をやることにきめました。
航海中は毎日のやうに南風が続いて、海が大そう荒れました。嵐がはげしい時には、船体がひどくゆれて、ねぢ折られさうになつたことが幾度もありました。しかし、安芳等は少しも恐れず、元気よく航海をつゞけ、日本を出てから三十人日目にサンフランシスコに着きました。アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間もないのに、少しも外国人の助を受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えて来たものだと、大そう感心しました。
第十六課 忍耐
アメリカ発見で名高いコロンブスは、イタリアの海岸に生まれ、海が好きで、十四の年から船乗になりました。其の頃はまだ地理の学問が開けず、又さま/゛\な迷信などがあつて、遠くに航海する者はありませんでした。』
コロンブスはいろ/\の記録や報告を深く研究して、大地は水と陸とで出来てゐて、其の形は球のやうなものに違ひないから、ヨーロッパから・西に向つて、どこまでも進んで行けば、きつとアジヤの東に達することが出来ると言出しました。しかし、其の頃の人は大地は平たいものとばかり思つてゐたので、コロンブスの言ふことを誰一人として信じる者がなく、あざけり笑ふばかりでした。
コロンブスはそれに少しも屈しないで、熱心に研究を積んで、いよ/\自分の考へてゐることに間違がないと信じました。そこでどうかしてそれを実行しようとしたが、自分にはとても航海の費用を出す力がなく、さりとて事業を助けてくれる人もありません。いろ/\苦心したけれども、久しい間、其の志を遂げることが出来ませんでした。後にイスパニヤの皇后イサベラに知られ、其の助を受けて、やつと年来の志を実行する時節が来ました。そこでコロンブスは喜び勇んで、三ぞうの船に百二十人の水夫をのせ、イスパニヤを出帆することになりました。
それから大西洋を西へ/\トと進んで行つたが、日数がたつても、陸地の影さへ見えません。水夫等は、このさきどうなることかと、次第に恐しくなつて、このまゝ引返さうとコロンブスにせまつたが、コロンブスは落ちついて、いろ/\水夫等をさとしました。かやうにして進んで行くうちに、陸地が見えたと喜んでゐると、それは雲であつたことが度々でありました。水夫等は失望して、もうとても辛抱しきれず、コロンブスがどうしても引返すことをきかないなら、海の中に投げこまうとたくらんだ者さへありました。けれども、コロンブスは忍耐の心の強い人であつたから、さわいでゐる水夫等を慰めたり、おどしたりして、なほさきへ/\と進んで行きました。出帆後七十日たつて、遂に新しい島を発見しました。これが今のサンサルバドル島です。それからコロンブスは一たんイスパニヤへ帰つて、このことを皇后に報告し、其の後、何べんも航海して、とう/\アメリカ大陸を発見することが出来ました。
第十七課 自信
吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書の講釈をいひつけられました。家の人たちはいろ/\と気づかつたが、松陰は藩主の前に進み出て大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知つてゐる通りはつきりと講釈したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。
松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないやうにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹込まなければならないと、かたく信じて、一身をさゝげて此の事に尽さうと決心しました。二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精紳を養ふことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教へれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村ほ片田舎ではあるが、此の塾からきつと御国の柱となるやうな人が出る。」と言つて、弟子たちを励ましました。
松陰が松下村塾を開いてゐたのは、僅かに二年半であつたが、はたして其の弟子の中からりつぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂
第十八課 主婦の務
滝子は吉田松陰の母であります。松陰の父杉百合之助は松陰が少年の頃までは、家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ませんでした。そこで、滝子はよく夫を助けて、野に出て田畑を耕したり、山に行つて薪をとつたりして、仕事に骨折りました。又よく姑に事へ、子供の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから家事一切をひとりで引受けて、かひ/゛\しく立働き、馬を飼ふ世話まで自分でしました。
滝子は姑を大事にしました。三度の食事には暖いものをすゝめ、衣服は柔いものを着せなどしていたはり、裁縫する時は、喜ばれるやうな話をして聞かせて、慰めました。又姑の妹が上の家に世話になつてゐたが、或時、重い病気にかゝりました。滝子は久しい間、夜もろく/\寝ずに心から介抱したので、姑は、「忙しくて暇のないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、誠に有難い。」と言つて、涙を流して喜びました。
後、百合之助は藩の役人に取立てられて、城内にうつりましたが、滝子は家に留つて、よく家政をとゝのへ、松陰等の養育につとめました。かやうに滝子は夫を助けて勤倹力行したので、家も次第に豊になり、又教育の仕方がよかつたため、子供は皆心掛のよい人になりました。中にも松陰は国の為に尽し、たび/\難儀に出会つたが、いつも滝子は我が子を励まして尊王愛国の道に尽させました。松陰が松下村塾を開いてゐた間も、滝子はよく弟子たちをいたはり、又松陰をたづねて来る同志の人々を親切にもてなしました。
第十九課 朋友
新井白石は九歳の時から、日課を立てて、少しの暇でもむだにせず、一生けんめいに、学業に励みました。後、木下順庵といふ名高い学者の弟子となつてからも、貧苦をこらへて、益、勉強したので、日に/\学問が深くなりました。
或時、順庵は白石を加賀侯に推薦しようと思つて、そのことを白石に告げました。其の頃、やはり順庵の弟子で岡島石梁といふ人がありましたが、その事を聞いて、白石に、「加賀は私の郷里で、家には年よつた母がたつた一人で、私の帰るのを待つてゐる。もし先生の御推薦で、私が加賀侯に仕へることが出来たら、母もどんなに喜ぶだらう。」と言ひました。白石はそれを聞くとすぐに、順庵のところへ行き、其のわけを話して、「私の仕へますのは、どこでもよろしうございます。どうか私の代りに、岡島を加賀へ御推薦下さい。」と願ひました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、その通りにしました。二年程たつて、白石は順庵の推薦で、甲斐侯に仕へることになりました。侯が後に将軍となつてから、重く用ひられました。
第二十課 礼儀
我等が世間の人と共々に生活するには、知つてゐる人にも知らない人にも礼儀を守ることが大切です。礼儀を守らないと、人に不快の念を起させ、また自分の品位をおとすことになります。
人の前に出る時には、頭髪や手足を清潔にし、着物のきかたにも気をつけて、身なりをとゝのへなければ失礼です。人と食事をする時には、音を立てたり、食器をらんざつにしたりしないで、行儀をよくして、愉快な心持でたべるやうにしなければなりません。又室の出はいりには、戸・障子のあけたてを静かにするものです。
汽車・汽船・電車などに乗つた時には、互に気をつけて人に迷惑をかけないやうにすることが必要です。自分だけ席を広くとつたり、不行儀ななりをしたり、いやしい言葉づかひをしたりしてはなりません。集会場・停車場其の他、人がこみあつて順番を守らなければならない場所で、人をおしのけて、われさきにと行つてはなりません。又人の顔かたちやなりふりを笑ひ、悪口を言ふのはよくないことです。
外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。
第二十一課 度量
西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んで居た頃、或日友人やカ士を集めて、庭で相撲をとつてゐると、取次の者が来て、福井藩士で橋本左内といふ人が見えて、ぜひお目にかゝりたいと申されます。」と言ひました。一室に案内させ、着物をきかへて会つて見ると、左内は二十歳あまりの、色の白い、女のやうなやさしい若者でした。隆盛は心の中で、これではさほどの人物ではあるまいと見くびつて、あまりていねいにあしらひませんでした。左内は軽蔑されてゐることをさとりましたが、少しも気にかけず、「あなたがこれまで国家の事にいろ/\お骨折りになつてゐると聞いて、したはしく思つてゐました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、国家の為に尽したいと思ひます。」と言ひました。隆盛はそしらぬ顔で、「いや、それは大へんなお間違です。私のやうな馬鹿者が国家の為をはかるなどとは、思ひもよらぬことです。たゞ相撲が好きで、ごらんの通り、若者どもと一しよに、毎日相撲をとつてゐるばかりです。」と言つて、相手にしませんでした。それでも左内は落ちついて、「あなたの御精神はよく承知してゐます。そんなにお隠しなさらずに、どうぞうちあけていたゞきたい。」と言ひ、真心をこめて、自分の意見を述べました。隆盛はぢつとそれを聞いてゐたが、左内の考が如何にもしつかりしてゐるので、すつかり感心してしまひました。
隆盛は左内が帰つてから、友人に向ひ、「橋本はまだ年は若いが、意見は実にりつぱなものだ。みかけがあまりやさしいので、はじめ取りあはなかつたのは、自分の大きな過であつた。」と言つて、深く恥ぢました。
隆盛は翌朝すぐに左内をたづねて行つて、「昨日はまことに失礼を致しました。どうかおとがめなく、これからはお心安く願ひたい。」と言つてわびました。それから二人は親しく交り、心をあはせて国家の為に尽しました。左内が死んだ後まで、隆盛は、「学問も人物も自分がとても及ばないと思つた者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖で、一人は友人の橋本左内だ。」と言つてほめました。
第二十二課 信義
加藤清正は信義の心の強い人でありました。豊臣秀吉が明国を討つために、兵を朝鮮に出した時、浅野幸長が蔚山の城を守つてゐたところへ、明国の大兵が攻めよせて来ました。其の時、城中の兵が少い上に、敵がはげしく攻めるので、城は日にましあやふくなりました。そこで、幸長は使を清正のところへやつて救を求めました。清正はそれを聞いて、「自分が本国をたつ時、幸長の父の長政がくれ/゛\も幸長の事を自分に頼み、自分もまた其の頼を引受けた。今もし幸長のあやふいのを見て救はなかつたら、自分は長政に対して面目が立たない。」と言つて、すぐに部下の者を引きつれて出発しました。清正は手向つて来る敵を僅かの兵で追散らして、蔚山の城にはいり、幸長と力を合はせ、明国の大兵を引受けてこゝにたてこもり、大そう難儀をしたが、とう/\敵を打破りました。
格言 義ヲ見テ為ザルハ勇ナキナリ
第二十三課 誠実
清正は嘗て、石田三成等のざんげんで、秀吉の怒を受けて、伏見の屋敷に謹慎してゐたことがありました。ところが、或夜大地震があつて、多くの家が倒れました。清正は秀吉の身の上を気づかつて、部下の者を引きつれてまつ先に城にかけつけ、夜があけるまで、其の門を守つてゐました。秀吉はそのやうすを見て、清正の誠実に感心して、怒もおのづととけました。あくる日、清正を召出して、ざんげんのことを自分できゝたゞしLたが、清正に罪のないことが明らかになつたので、却つて前よりも厚く信用するやうになりました。
秀吉がなくなつた後、其の子の秀頼はまだ幼くて大阪城にゐました。其の頃、徳川家康の勢が大そう盛になり、豊臣氏の恩を受けた者も次第に家康について、秀頼をかへりみる者が少くなりました。しかし、清正は相変らず秀頼の為に心を尽し、大阪を通るたびに、きつと秀頼の安否をたづねました。家康はそれをきらつて、そつと人にいひふくめて、やめさせようとしました。清正は「大阪を通りながら、秀頼公のごきげんを伺はないのは武士の道でない、又太閤の御恩を忘れてはすまない。」と言つて、聞きませんでした。
或時、秀穎が家康から京都まで面会に来るやうにと言つて、招かれたことがありました。秀頼の母は家康に敵意のあることを気づかつて、秀頼の京都に行くことに同意しませんでした。けれども清正は、この事で両家の仲が悪くなつてはならないと考へて、「私が命にかけてお護り申しますから、ぜひお出を願ひます。」と言つてすすめました。それで秀穎は清正と一しよに京都へ行くことになりました。清正は秀頼が家康と対面する間はもちろん、往復の途中でも少しも側を離れずに、秀頼の身を護つて、無事に大阪に帰りつきました。其の時、清正は、「今日はいさゝか太閤の御恩に報いることが出来た。」と言つて、涙をこぼして喜びました。
第二十四課 謝恩
豊臣秀吉の夫人は織田信長の足軽の娘であります。信長の家来に伊藤右近といふ人があつて、夫人の生まれた時から引取つて親切に養育し、大きくなると世話をして奉公に出しました。其の頃、秀吉は木下藤吉郎といつてまだ低い身分であつたが、夫人を妻にもらはうと思つて、其のことを申し入れました。夫人はまづ右近の所へ行つて相談すると、右近は、「藤吉郎はちゑのすぐれた人だから、末の為によろしからう。」と言つて、いろ/\支度をとゝのへて、藤吉郎と結婚させました。
其の後、藤吉郎は次第に立身して、とう/\太閤秀吉といつて、日本国中の人から尊ばれる身となつたが、昔世話になつた右近のことを忘れず、方々をさがさせて、やつとたづね出し、其の妻と一しよに大阪城につれて来させました。秀吉夫婦は大そうねんごろに右近等をいたはり、昔のことなどを言出し、涙を流して世話になつた礼を言ひ、夫人自らたくさんの物を持出して与へました。此の時、夫人は右近等の側により、「お身等の綿入は汚れてゐるから、私が洗濯してあげませう。」と言つて、別に着物を出して着かへさせました。それから十日程たつて、右近夫婦を招いて、「さきの洗濯が出来ました。」と言つて渡しました。秀吉は右近に禄を与へて、大阪に住まはせることにしました。
第二十五課 博愛
紀伊の水夫虎吉等は、蜜柑を船に積んで江戸に行き、其の帰途で、暴風にあひました。船は山のやうな大波にゆられて、遠くの方へ吹流され、二箇月ばかりも大洋の中をたゞよひました。其の間に、食物も飲料水もなくなつて、大そう難儀をしました。
或日、ちようど通りあはせたアメリカ合衆国の捕鯨船が虎吉等を見つけて、救ひ上げ、パンなどを与へて、親切にいたはりました。船長がどこの者かときいたが、言葉が通じないので、地図を出して見せて、やつと紀伊の人といふことがわかりました。それから、この船は北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたつて、帰りに、船長は便船に頼んで虎吉等を香港まで送り届けました。そこには仕立屋をしてゐる日本人があつて親切に世話をし、フランスの船に頼んで上海まで送つてくれました。それから虎吉等は支那の役人の保護を受け、便船に乗つて、やつと我が国に帰ることが出来ました。郷里では三年もたよりがないから、死んだことと思つてゐたところへ、無事に帰つて来たので、夢かとばかり喜びました。
知つてゐる人も知らない人も博く愛するのが人間の道であります。いろ/\災難にあつて困つてゐる者を救ふのはもちろん、たとひ敵でも、負傷したり、病気になつたりして苦しんでゐる者を助けるのは、博愛の道です。明治三十七八年戦役に上村艦隊が敵の軍艦リューリクを打沈めた時、敢のおぼれ死なうとする者を六百余人も救ひ上げたのは、名高い美談であります。
第二十六課 徳行
中江藤樹は近江の小川村の人であります。幼い時から祖父の家に養はれ、其の後をついで、伊与の大洲侯に仕へてゐましたが、故郷の母を養ふために、役をやめて小川村へ帰りました。
藤樹は貧しい中で、年よつた母に事へて孝行を尽し、又熱心に学問に励んだので、とう/\徳の高い学者となりました。そこで、藤樹をしたつて、遠い所からはる/゛\教を受けに来る者も多く、馬子のやうな、学問をしない者までも、其の徳に感化されました。それで世間の人が皆、藤樹を敬つて近江聖人といひました。藤樹がなくなつてから、長い年月がたつてゐるが、村の人たちは今でも其の徳をしたつて、年々の祭をしてゐます。
或年、一人の武士が小川村の近くを通るついでに、藤樹の墓をたづねようと思つて、畑を耕してゐる農夫に道をきゝました。農夫は自分が案内しようといつて、先に立つて行つたが、途中で自分の家に立ちよつて、着物をきかへ、羽織まで着て来ました。武士は心の中で、自分を敬つて、かやうにしたのだらうと思つてゐました。藤樹の墓についた時、農夫は垣の戸をあけて、武士を其の中にはいらせ、自分は戸の外にうや/\しくひざまづいて拝みました。武士はそこではじめて、さきに農夫が着物をきかへたのは、全く藤樹を敬ふためであつたと気がついて、深く感心して、ていねいに墓を拝みました。
第二十七課 よい日本人
我が大日本帝国は万世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は数千年来、心をあはせて克く忠孝の道に尽しました。これが我が国の世界に類のないところであります。我等は常に天皇陛下・皇后陛下・皇太后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで忠君愛国の道に励まなければなりません。忠君愛国の道は君国の大事に臨んでは、挙国一致して奉公の誠を尽し、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、国家の進歩発達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の務を尽すのは、やはり忠君愛国の道を実行するのであります。
父母には孝行を尽して其の心を安んじ、兄弟は仲よくして互に助け合ひ、主婦はよく家を治め子供を教養しなければなりません。
人に交つては信義を重んじ度量を大きくし、殊に朋友には交を厚くし、人から受けた恩を忘れず、世に立つては産業を興し、公益を広め、礼儀を重んじ、衛生の心得を守り、又博く人を愛し誰にも親切にしなければなりません。
常に誠実を旨とし、進取の気象を養ひ、自己に信頼し、勇気を励まし、よく忍耐し、勤労を重んじ、倹約を守らなければなりません。又身体の健康を進め、学問に勉め、徳行を修めるやうに心掛けることが大切です。
是等の心得を守るのは、数百に関する勅語の御趣意にかなふわけであります。我等はこの御趣意を深く心にとめ、至誠をもつて是等の心得を実行し、あつぱれよい日本人とならなければなりません。
尋常小学修身書巻五児童用終
昭和二年十一月廿九日翻刻印刷
昭和三年一月二十日翻刻発行
尋常小学修身書巻五児童用
臨時定価 金拾銭
昭和二年十二月五日
文部省検査済
著作権所有 著作兼発行者 文部省
翻刻発行兼印刷者 東京市小石川区指ケ谷町百三十六番地
東京書籍株式会社
代表者
石川 正作
印刷所 東京市小石川区指ケ谷町百三十六番地
東京書籍株式会社工場
発売所 東京市麹町区飯田町一丁目二三番地
株式会社 国定教科書共同販売所
● 尋常小学修身書 巻6
尋常小学修身書 巻六
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹
ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心
ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精
華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝
ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ
徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ
重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天
壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良
ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰ス
ルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ
倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外
ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳
ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御 名 御 璽
尋常小学修身書巻六 児童用
第一課 皇大神宮
皇祖天照大神をおまつり申してある皇大神宮は、伊勢の宇治山田市にあります。神域は神路山のふもと、五十鈴川の流にそひ、いかにも神々しい処で、一たび此処にはいると、誰でもおのづと心の底まで清らかになります。
皇室ほ一方ならず皇大神宮を尊ばせられます。天皇陛下は皇族を祭主に御任命になつて御祭事をすべつかさどらせられ、新年祭・神嘗祭・新嘗祭には、勅使をおさし立てになつて幣帛をさゝげさせられます。勅使をおさし立てになる時には、天皇陛下は親しく幣物を御覧になつて、御祭文をお授けになり、勅使が退出するまでは入御になりません。なほ神嘗祭の当日には、宮中でおごそかに御遥拝の式を行はせられます。又毎年の政始には、第一に皇大神宮の御事をきこしめされ、皇室や国家に大事のある際には、必ず皇大神宮に御親告になります。大正天皇の御即位の礼を行はせられた時にも、御みづからその趣をお告げになりました。
皇大神宮の宮殿は、二十年毎に新にお造りになつて、おごそかに正遷宮の御儀式を行はせられます。皇室は御遷宮の御事を至つて大切に遊ばされ、明治四十二年に御遷宮のあつた時にも、明治天皇ほこの御事を深く大御心にかけさせられ、前もつて工事等の
くはしい書きものをさし出させて一々御覧になりました。
皇室はかやうに厚く皇大神宮を御尊崇になります。国民も昔から厚く皇大神宮を敬ひ、一生に一度は必ず参拝しなければならないことにしてゐます。
第二課 図運の発展
明治の初にあたつて、明治天皇は、世界の文明をとり入れて我が国の発達をはかり公論によつて政治を行ふといふ大方針をお立てになりました。それから僅か六十年余りの間に我が国運は非常な進歩発展をとげました。
昔は、国民は国の政治にはもとより、自分等の住む町や材の政治にもたづさはらなかつたのです。それが今日では、自分等の住む市町村の事は大体自分等の間ですることになり、また衆議院議員を選挙しなどして国の政治にも参与することになりました。
昔は、寺子屋などで少数の子供が読み書きやそろばんを少しばかり習つただけで、国民の中には字の読めない者もたくさんありました。明治になつてから次第に教育が盛になり、今日では小学校が到る処にあつて、国民は皆一通りの教育を受けられるやうになりました。その外諸種の学校が備つて、誰でも更に進んで十分に教育を受けることが出来ます。又学問・技芸は我が国に昔からあり来つたものや支那から伝つたものばかりであつたが、明治になつてから、盛に西洋のものも取り入れて発達をはかつたために、今日では学問も技芸も非常に進歩しました。
始めて東京横浜間に鉄道がしかれてから六十年たつただけですが、今日では何処へ行くにも汽車を利用することが出来ます。又始めて汽船を見て驚いたのは八十年程前ですが、今日の我が国は、汽船の数では英・米二国の次に位してゐます。明治以前には通信は専ら飛脚によつたので、ずゐぶん不便でしたが、現今では何処にも郵便や電信・電話の設があつて、非常に便利に通信が出来るやうになりました。
昔は、護国の任に当つたのは武士だけでしたが、明治になつて徴兵令がしかれてから、国民は皆兵役について我が国を護ることになりました。それがために陸海軍の備が十分整つて、明治二十七八年・同三十七八年の両戦役には、国威を世界に輝かすことが出来ました。
我が国は、徳川幕府が久しい間外国と交通することを禁じてゐたので、明治以前には余程世界の大勢に後れてゐました。それがため、外国と交際を開いた時には、大そう不利益な条約を結び、その後長らく苦しみました。
しかし国民はよくこれに耐へ、力を合はせて国の繁栄をはかつた結果、遂に外国も我が実力を認めたので、我が国は條
約を改正することが出来て、外国と対等に交際することになりました。
第三課 国運の発展(つゞき)
哉が国の人口は、六十年前には三千余万でしたが、今日では八千万にも及んでゐます。これらの国民があまねく教育を受け、国の内外で仕事に励むのですから、将来の発展は一層めざましいに違ありません。
我が国は昔から農業を本とする国ですから、その方面は相応に発達してゐました。又周囲が海であるから水産業は昔から盛で、現今では世界で一二を争ふ位です。しかし商業は、主に明治になつてから進歩しました。昔は商人がめい/\僅かな資本をもつて、国内だけで取引をしてゐましたが、明治になつてからは商業の会社もだん/\出来て、今日ではその数が一万以上になり、大資本をもつて、国内のみならず外国とも盛に取引をするやうになりました。又工業の発達したのも明治になつてからで、昔は手でした事をだん/\機械でするやうになり、五十年前には工場の数が千余であつたのが、今日では数万もあつて、紙でも糸でも織物でも大仕掛にこしらへてゐます。
かやうに政治・教育・産業等あらゆる方面の発達をはかるために、我が国は種々の施設をして来ました。そのための費用が、三十年前には年額数千万円でしたが、近年では十数億円に達してゐます。これらの費用は国民が負担するのですから、国民の富も増してゐることがよくわかります。
我が国は、かやうな発達の結果、欧洲大戦の後には世界の大国の中に列することになりました。我が国をこれまでに盛にするのは決して容易なことではありません。ひつきやう明治の初以来、天皇御みづから国民をお率ゐになり、国民も皆一体になつて大御心を仰いでつとめて来たからです。しかし現在でも、英・米・独・仏等の諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります。将来我が国が更に発達してこれらの国々と肩をならべて共共に、文明の進歩をはかつて行くやうになるのは、我等の責任です。
第四課 国交
隣近所同志互に親しくして助け合ふことが、共同の幸福を増す上に必要なことは、いふまでもありません。それと同様に、国と国とが親しく交り互に助け合つて行くことは、世界の平和、人類の幸福をはかるのに必要なことです。今日各国互に条約を結び、大使・公使を派遣して交際につとめてゐるのも、主としてこれがためであります。
明治天皇は、諸外国との和親について非常に大御心をお用ひになりました。明治四十一年に天皇の下し賜はつた詔書の中にも、益国交を修めて列国と共に文明の幸福を楽しまうと仰せられてあります。
欧洲大戦の終に平和会議がパリーで開かれた時、我が国もこれに参加しました。この会議の結果、出来上つたのが平和条約で、将来世界の平和に大切な国際連盟規約はこの条約の一部です。この条約の実施された大正九年一月十日に、大正天皇は詔書を下し賜はつて、万国の公是によつて平和の実を挙げ我が国力を養つて時世の進歩に伴なふやうに勉めよと国民にお諭しになりました。
今上天皇陛下は皇太子であらせられた時、欧洲諸国を御巡歴になりました。半年の間、陛下は到る処の国々で御交際におつとめになり、いつも非常に好い感じをお与へになりました。これがため各国との和親がどれ程増したかははかり知られません。
我等も国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当つては、常に彼我の和親を増すやうに心掛けませう。
第五課 忠君愛国
民のため心のやすむ時ぞなき
身は九重の内にありても
これは明治天皇の御製でありますが、この有難い思召は、すなはち御代々の天皇が我等国民の幸福をお思ひになる大御心です。我等国民は祖先以来、かやうに御仁慈であらせられる天皇をいたゞいて、君のため国のために尽すのを第一の務としてゐます。
昔から国に大事が起つた場合には、楠木正戌や広瀬武夫のやうな人が、身命をさゝげて君国を守りました。また平時にあつては、作兵衛・伊藤小左衛門・高田善右衛門のやうな人が、それ/゛\農・工・商等の職業に励んで我が国の富強を増し、中江藤樹・貝原益軒・円山応挙のやうな人が、学問や技芸につとめて我が国の文明を進めました。
我等はよく我が身を修めて善良有為の人となり、祖先の美風をついで、国の大事に際しては身命をさゝげて君国を守り、平時に於ては各その職分を尽して我が国の富強を増し文明を進め、忠君愛国の実を挙げなければなりません。
第六課 忠孝
北条氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。楠木正成は諸将と共に尊氏を討つて九州に追払ひましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上つて来るとの知らせがあつたので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向ひ、「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きつと君に忠義を尽し奉れ。それが第一の孝行である。」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。この時正行は十一歳でした。正成はそれから兵庫に行つて遂に湊川で討死しました。
家に帰つてゐた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そつと一間に入つて自殺しようとしました。我が子の様子に気をつけてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしつかとおさへて、「父上がお前をお返しになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失はず、遊戯にも賊を討つまねをしてゐました。
正行は大きくなつて、後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く頼みに思ふぞとの御言葉さへ賜はりました。正行はそれから四条畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とう/\兄弟さしちがへて死にました。
格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。
第七課 祖先と家
我等の家では、父は職業に励み、一家の長として我等を保護し、母は父を助け、一家の主婦として家事にあたり、共に一家の繁栄と子孫の幸福をはかつてゐます。父母の前は祖父母、祖父母の前は曾祖父母と、我が家は祖先が代々維持して来たものです。代々の祖先が家の繁栄と子孫の幸福をはかつた心持に於ては、いづれも父母とかはりがありません。我等はかやうに深い祖先の恩を受けて生活してゐるのです。この恩を感謝し、祖先を尊ぶのは、自然の人情であり、また人の道であります。
一家の中で、一人でも多くよい人がゐて、業務に励み、公共の事に力を尽せば、一家の繁栄を増すばかりでなく、また家の名誉を高めることになります。また僅か一人でも不心得の者がゐて、悪いことをしたり、務を怠つたりすれば、一家の不名誉となり、その繁栄を妨げます。一人の善悪の行は、たゞその人だけのことと思ふのは大きな間違で、一家全体の幸不幸となり、祖先の名にもかかはります。それ故一家の人々は、皆心をあはせて家の名誉と繁栄の為に力を尽し、祖先に対してはよい子孫となり、子孫に対してはりつぱな祖先となるやうに心掛けることが大切であります。
第八課 沈勇
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、問もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもつて、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないやうになつたので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいつて来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。
遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守つたことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くやうな事があつてはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬやうにして下さいと願ひ、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだあり/\と見えてゐました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
格言 人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ。
第九課 進取の気象
高田屋嘉兵衛は淡路の人で、子供の時から船乗となつて人に雇はれてゐましたが、後兵庫に出て回漕業を始めました。さうしてまだあまり人の行かなかつた北海道へまでも出かけて家業につとめたので、家もだんだん豊になりました。
其の頃ロシヤ人が千島に入り込むらしいので、幕府は警備の役人を出し、また国後・択捉への航路を開くために、特に熟練した船長を募りました。しかし北の方の海は浪風もはげしく寒気も強くて航海が危険であらうと恐れて、誰一人応ずる者がありません。嘉兵衛は深く決心して進んで募に応じ、この困難な仕事を引受けました。
嘉兵衛はまづ図後島に渡りました。図後から択捉へ渡る海上は殊に難所ですから、いろ/\苦心して潮流の模様を調べた結果、廻り路をすれば安全であることを見きはめたので、いよ/\船を出しました。しばらくすると霧が深くなつて行先も見えなくなり、その上始めての航路なので、水夫等はしきりに危険を気遣つたが、嘉兵衛は自分の考へた通りに船を進めて、無事に択捉島に着きました。さうして十分島内を視察して引返し、この航路の安全であることを役人に報告しました。次の年にもまた嘉兵衛は幕府の命を受けて択捉島に渡り、所々に漁場を開いて土人に産業を授けました。
その後、嘉兵衛はロシヤの軍艦に捕へられてカムチャッカに行き、それを機会に、その当時我が国とロシヤとの間に起つてゐた争を解いて国の為に功を立てました。
第十課 工夫
久留米絣を発明したのは井上でんといふ人です。でんは機織が好きで、子供のうちに早くも一通り織れるやうになりました。しかし生まれつき勝気でしたから、どうかして世間にない目新しい物を織出さうと、常に工夫をこらしてゐました。
或日でんは、着古した黒い地の仕事着があちこち白くすれて模様かと思はれるやうになつてゐるのに気がつきました。これは面白いと思つて、ほぐして糸にしてみると、黒い糸が所々白くなつてゐるので、黒と白の斑の糸で織れば、きつと面白い模様の織物が出来るに違ないと考へつきました。そこでためしに白糸を所々くゝり、藍汁につけて斑に染め上げ、その糸を機にかけて、どんな織物が出来るかと胸を躍らせながら織つてみると、かすり模様があらはれて面白い織物が出来ました。それからいろいろと改良を加へて、後には非常に手の込んだ模様でも織れるやうになりました。
久留米絣は、今日では誰でも知らない者がない位に広く用ひられてゐます。
第十一課 自立自営
フランクリンは、今から二百余年前に北アメリカのボストンで生まれました。家が貧乏な上に兄弟が多いの
で十歳で学校をやめて家業の手伝をしました。しかし幼い時から読書が好きで、小遣銭をためては本を買ひ、少しでも暇があると、熱心にそれを読みました。そのために早くから倹約と勉強のよい習慣がつきました。
十二歳の時、兄の印刷工場で仕事を習ふことになりましたが、子供ながらもよく働いて仕事を覚え、間もなく一人前の職工になりまLた。其の間にも知合の人からいろ/\な本を借受けて、一日の仕事がすむと、それを読むのを楽しみにしてゐました。
十七歳の時、ボストンからフィラデルフィヤに行つて、ある印刷工場に雇はれました。そこで一生けんめいに働いて、遂に二十四歳の時には独力で印刷業を経営し、長くフィラデルフィヤに住居するやうになりました。それから後も、常に学問を怠らず徳行に励んだので、遂にはりつぱな人になり、アメリカ合衆国の独立の際に大功を立てました。
格言 天ハ自ラ助クル者ヲ助ク。
第十二課 公益
フランクリンは自分の住んでゐるフィラデルフィヤをりつぱな所にするためにいろ/\と力を尽しました。
フランクリンは知人と相談し、資金を出しあつて図書館をこしらへました。これがもとで方々に同じ様な図書館が出来て、そのおかげでこの地方の人々の知識がだん/\進んで来ました。
フランクリンはまた新聞紙を発行しました。その頃の新聞紙の記事には間違や無益なことが多かつたが、フランクリンは正しい有益な記事を自分の新聞紙に載せたので、大そう世間のためになりました。
またその頃は一般に消防の方法が不十分でしたから、火事があると、きつとその度に大きな損害がありました。そこでフランクリンは、火事の予防法を調べ、それを印刷して配りました。又同志の者を集めて消防組を作り、火事があるとすぐにかけつけて消防につとめることにしました。かやうな消防組がだん/\出来たので、フィラデルフィヤでは火事の損害が少くなりました。フランクリンはまた工合のよいストーブを発明したので、
「専売特許を願ひ出てはどうか。」と言つてすすめる友人もありましたが、「広く行渡れば人々のためになることだから。」と言つてきき入れませんでした。
其の外フランクリンは、寄付金を集めてフィラデルフィヤにはじめて中学校を立てたり、有益な暦を工夫して発行したり、街路を改良したり、病院を開いたりして、公益の為に力を尽しました。中でも電気を研究して、雷が電気の作用であることを証明し、避雷針を発明して広く世人を益したことほ有名な話です。
第十三課 共同
久留米の東、筑後川に沿うた地方では、水が近くにありながら、川底が深く流が急なために、灌漑の便利が悪くて作物が出来ず、人々が大そう困つてゐました。
今から二百六十年ばかり前に、此の地方に栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞といふ五人の庄屋がありました。五人は村々の困難をどうかして救ふ方法はあるまいかと、いろ/\相談し合ひ、十分測量もした上で、遂に筑後川に大きな堰を設け、掘割を作つて、水を引くより外はないと決しました。しかし、これは今まで誰も企てたことのない大工事であるから、久留米藩の許を受けるのは、なか/\容易ではあるまいと思つたので、「我々が一旦かく思ひ立つた以上は、どんな事があつても生死を共にして、きつとこの企を成就しよう。」と、互に堅く誓ひました。他の庄屋たちがこの企を聞いて、中には仲間に入りたいと申し込む者もありましたが、五人は「この大工事が成就しなかつたら、これを企てた我々は一命を捨てねばならぬかも知れない。むやみに人を仲間に入れて迷惑をかけてはならない。」と言つてことわりまLた。しかし、だん/\詰をきいて、その庄屋たちの志の堅いのを知り、仲間入をさせ、一しよになつて工事の許可を願ひ出ました。
久留米藩では、かやうな大工事はとても成し遂げることは出来まいと思つたので、なか/\許しませんでした。その上、この計画の水路に当つてゐる村々の庄屋の中には、「この堰を作ると洪水の際に危険である。」と言つて反対する者も出て来ました。五人の庄屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを一同熱心に説きました。藩の役人は五人に向ひ、「もし計画通りに行かなかつたら、お前方はどうするか。」ときゝますと、「その場合には私共五人が責を負うて、どんな重い刑罰でも快くお受けいたします。」と答へました。そこで役人も五人の決心の堅いのに感じ、とう/\その願を許しました。
五人の庄屋は、仲間の庄屋たちと一しよに村の人々を指図して、いよ/\工事にとりかゝりました。監督に来た藩の役人は、もし計画通りに行かなかつたら、ふびんながら五人を重く罰すると、改めて言渡しました。工事に集つた人々は口々に、「五人の庄屋を罪に落してはすまない。」と言つて、夜昼一生けんめいに働き、女・子供までも手伝つて木や石を運びました
。それで、さしもの大工事も意外にはかどり、大きな堰が出来上りました。果して五人の庄屋の計画通りに、筑後川の水がどん/\と掘割に流れ込みました。その時の人々の喜はたとへやうもありませんでした。
此の成功を見て、外の村々でも水を引きたいと願ひ出たので、また此の堰と掘割をひろげることになりました。はじめ工事に反対した庄屋も、今度は水の分前にあづかりたいと願ひ出ました。先に願ひ出た庄屋たちは「あの人々は工事に反対したのですから、我々の村に水が来るまでは、さしひかへさせて下さい。」と申し立てましたが、五人は「此の企はもと/\此の地方の人を救ふためですから、同時に願をお許しになるやうに。」と言つたので、役人もそれに同意しました。
これまで水が少くて作物のとれなかつた此の地方が、収穫の多い仕合はせな土地になつたのは、此の五人の庄屋が心をあはせ必死になつて力を尽したおかげです。
弟十四課 慈善
宮崎県茶臼原の広い高原に、有名な岡山孤児院を移した茶臼原孤兄院がありました。十戸程あるその家族舍には、どれにも子供が十二三人づつ居つて、保姆の世話を受けて普通の家庭に居ると同じ様に幸福にくらしてゐまLた。この子供たちは院の小学校に通ひ、課業が終ると家族舍に帰つて、一しよに楽しく家事や耕作の手伝をしました。小学校を卒業した後は、専ら農事や裁縫を習ひ、一人前になつた上で、世に出ることになつてゐました。この孤児院を開いた人ほ石井十次です。
十次は天性、情深い人でありました。小さい時、氏神のお祭に、近所の或子供が縄の帯をしめてゐるとて、仲間の者にいぢめられてゐるのを見て、かはいさうに思ひ、自分の博多帯ととりかへてやつたことがありました。
十次は大きくなつて岡山の医学校にはいりましたが、在学中に実地研究のため、しばらく片田舎のある診察所に行つてゐたことがありました。此の診察所の隣には大師堂があつて、毎夜巡礼が来て寝て行きます。十次は毎朝、大師堂に飯を持つて行つて巡礼にめぐみました。或朝、いつもの様に大師堂に行つて見ると、あはれな子供の巡礼が二人、ぼんやり立つてゐたので、十次は飯を与へて帰りました。しばらくすると、子供等の母だといつて一人の女巡礼がたづねて来て、ていねいにお礼を述べ、不幸な身の上について、いろいろと話しました。十次はそれを聞いて気の毒でたまらず、年上の子を預つて世話をすることにしました。この時十次は、世間にたくさん居る同じ様な不幸な子供をどうしても助けねばならぬと堅く決心しました。それから間もなく岡山孤児院をたてて、だん/\多くの孤児を収容しました。
十次は孤児院の事業のために、いろ/\の困難を忍んで一生力を尽しました。十次の世話になつて世に出て、りつぱに独立の生活を営んでゐる者がたくさんあります。
第十五課 清廉
明治三十七八年戦役に、陸軍大将乃木希典は第三軍司令官として出征しました。ある時、家族へ手紙を出さうとすると、巻紙がなくなつてゐました。卓上には軍用の郵便紙がたくさんありましたが、大将はそれには手もふれず、そばにゐる参謀長に「紙の持合はせはないか。」と言つて、半紙をもらつて用を弁じました。
大将がりつぱな手柄を立てて、明治三十九年にめでたく凱旋した時、ある人が家の宝としてゐる槍の身を大将におくつて祝ひますと、大将は「お志はありがたいが、この槍は受けるわけにはいかない。どうぞこれはあなたの家に保存して置いて下さい。」といふ手紙を添へて送り返しました。その人が後に大将に面会し、「国の為にお尽しになつて、めでたく凱旋なされたのをお祝ひ申すつもりでさし上げましたのに、お受け下さらなかつたのは残念です。」と言ひますと、大将はたゞくり返しくり返しありがたうと礼をいふばかりなので、その人はいよ/\大将の清廉なのに感心しました。その頃大将が学習院長であつたので、その人は更に元寇の役の絵を画家にかかせて、「学生数育の資料にせめてこればかりはお納め下さい。」と言つておくりました。大将は喜んでそれを受けました。
明治四十二年、学習院の新しい校舍が出来上つた時、宮中から大将へ御下賜金がありました。大将は職員一同に「此の度の御下賜金は皆さんの御苦労を思し召されての御事と思ひます。」と言つて、その金を皆かつをぶしの切手にかへ、一々ていねいに水引をかけて、職員に分ちました。
第十六課 良心
我等は何かよい事をすると、人にほめられないでも自分で心嬉しく感じ、また何か悪い事をすると、人に知れないでも自分で気がとがめます。これは誰にも良心があるからです。この良心は、幼少の時にはまだ余り発達してゐないのですが、親や先生の教を受けて次第に発達し、善い事と悪い事との見わけがはつきりつくやうになります。さうなると、人の指図を受けないでも善い事はせずには居られないやうに感じ、悪い事はすることが出来ないやヤうに感じます。
我等は自分の良心の指図に従はねばなりません。人が見てゐないからとて、自分の良心の許さないことをしては、自分で自分の心を醜くすることになります。我等はよく自分をつゝしんで、天地に恥ぢないりつぱな人にならねばなりません。明治天皇の御製に
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは
人の心のまことなりけり
とあります。
今から百三四十年前、仙台に林子平といふ人がありました。非常に愛国心の深い人で、一般人はまだ外国の事情がわからなかつた当時、早くも世界の大勢を知つて国防の大切なことを説きました。幕府は子平を、根もない事を説いて世人を迷はす者として、その兄の家に幽閉しました。子平はそれから後、毎日一室の中に居つて一歩も家から出ないので、友達は子平が病気になりはしないかと心配して、「誰も見てゐるわけではなし、気晴しに少しぐらゐ出て歩いたらどうか。」と言つてすゝめました。子平は、そんなかげひなたのある行をすることは、どうしても自分の良心が許さないので、「御親切は有難いが、それでは上を欺くことになる。たとひ見てゐる人がなくても、そんなことは出来ない。」と答へました。
第十七諾 憲法
人が団体をなして生活するには、誰も守らなければならない規則が必要です。もしかやうな規則がなく、めいめい勝手気まゝなことをしたら、とても一しよに生活することは出来ません。それで国のやうな団体では、特に規則が必要です。国の規則はすなはち法令であつて、国民はこれによつて保護され、社会はこれによつて安寧秩序を保たれるのです。国民がもし法令を重んじなかつたら、国は秩序がみだれてその存立を全うすることが出来ません。
我が大日本帝国憲法は、天皇がこれに依つて我が国をお治めになる大法で、したがつて法令の本になる最も大切な規則です。明治天皇は皇祖皇宗の御遺訓に基づかれて、国の繁栄と国民の幸福とをお望みになる大御心から、君臣共に永遠にしたがふべきこの大法を御制定になり、明治二十二年の紀元節の日に御発布になりました。
憲法には、万世一系の天皇が我が国をお治めになることを示して、昔から変らない国体の本を明らかにしてあります。また国民に国の政治に参与する権利を与へ、法律によつて、国民の身体・財産等を保護し国民に兵役・納税の義務を負はせることがきめてあります。さうして天皇が我が国をお治めになるのに、一般の政務については国務大臣をお置きになつて輔弼をおさせになり、法律や予算は帝国議会の協賛を経ておきめになり裁判は裁判所におさせになることになつてゐます。
憲法と一しよに制定された皇室典範は、皇位継承・践詐即位等皇室に関する大切な事柄をきめてある規則で憲法と同じく図の大法であります。
第十八課 国民の務(其の一)
今日文明諸国は、皆協同して、戦争を避け平和を保つために、出来る限りの力を尽してゐます。しかし、世界にたくさんある国と国との間には、いろ/\の原因からいつ戦争が始らないとも限りません。それで、もし我が国にも禍が及んで、国の安危に関するやうなことが起つたら一大事です。それ故に、我等が一致して我が国の防衛に心を用ひ、その安全をはかるのは最も必要なことです。
我が国は昔から一度も外国のために国威を傷つけられたことはありません。これは御代々の天皇の御稜威と、我等の祖先が忠誠勇武であつたこととによります。我等も祖先が心を一つにして守護して来たこの国を守つて、光栄ある歴史を汚す事のないやうにしなければなりません。
我が国民中、満十七歳から満四十歳までの男子は、皆兵役に服する義務があります。それで満二十歳になると必ず徴兵検査を受け、体格の完全で強壮な者の中、抽籤に当つた者は、現役兵となつて陸軍又は海軍に入ります。もし国に一大事が起つた時は、現役にある者はもちろん、その他兵役に服する義務のある者は召集に応じて出征します。兵役に服して国の防衛に当る事は、我等国民の最も大切な義務であると共に、また大きな名誉であります。
我等は少年の時から身体をきたへ元気を養ひ、成長の後は徴兵検査に合格して海軍に入り、名誉ある護国の義務を果すことが出来るやうにしませう。また軍隊に入ることが出来ない者でも、常に心身を養つて、万一の国難にあたる覚悟がなければなりません。
第十九課 国民の務(其の二)
我が国を防衛して其の存立を全うするには、陸海軍の備がなくてほなりません。国民の教育を進め国運発展の基を固くするには、学校を設けなければなりません。その他、公共の安寧秩序を保ち、通信・交通を便にし、産業の発達をほかるなど、国民共同の福利を増すために、国の為さなければならない事がたくさんあります。したがつて国にはこれ等の仕事をするための費用がいります。
我等は市町村民として市町村の費用を分担するために、租税を納めなければならないことを学びました。国の費用も同様に、我等が国民として分担するのが当然で、それがためにもまた租税を納めなければなりません。もし国民が租税を納めなければ、国の仕事に必要な費用の出みちが壇く、国は何事もすることが出来ません。したがつて国民の幸福を進め国を盛にすることはとても望めないのはもちろん、国の存立さへ危くなります。納税は兵役と共に国民の大切な義務であります。』
租税には国全体の費用となる国税と、府県の費用となる府県税と、市町村の費用となる市町村税とがあります。国税は法律できまり、府県税・市町村税は法律で定められた範囲内で、それ/゛\府県会・市町村会の議決できまります。我等はこれ等のきまりに従つて税金を納めるのです。
我等は自ら進んで租税を納め、国を盛にする心掛が大切です。我等がもし納税に関する申告を怠つたり、納税の期限に後れて督促を受けたりすると、国に無益の手数をかけます。まして申告を偽つて脱税をはかつたり、期限に後れて滞納処分を受けたりするやうなことがあつては、自分の恥であるばかりでなく、国の仕事の妨になります。
第二十課 国民の務(其の三)
帝国議会は憲法の規定によつて毎年召集され、我が国の法律や予算などを議決する大切な機関です。議会で議決したことは天皇の御裁可を経て公布されます。
帝国議会は貴族院と衆議院から成立つてゐます。貴族院は皇族・華族の議員や勅任された議員で組織され、衆議院は選挙権をもつてゐる国民が公選した議員で組織されてゐます。
我等は将来、帝国議会の議員を選挙し、或はその議員に選挙されて、国の政治に参与することが出来ます。帝国議会の議決は国の盛衰に関係しますから、したがつて議員の適否は国民の幸不幸となります。我等はさきに市町村会議員を選挙する心得を学びました。帝国議会の議員を選挙するにも、同様によく注意して、候補者の中から、性行が善良でありりつぱな考をもつてゐる人を選挙しなければなりません。自分だけの利益のために投票し、又は他人に強ひられて適任者と思はない人に投票してはなりません。また理由もないのに、自分の選挙権を棄てて投票しないのは、自分のすべきことを怠つて自分を軽んずる行です。
また帝国議会の議員に選ばれた者は、その職責の重大なことを思ひ、常に国事を以て念とし、かりそめにも私情に動かされず、忠実に職責を果さなければなりません。
第二十一課 男子の務と女子の務
男子も女子も人として国民として行ふべき道に違はありません。男子が世の繁栄をはからねばならぬと同じ様に、女子もそれをはからねばなりません。また女子が身もちを慎まねばならぬと同じ様に、男子もそれを慎まねばなりません。
かやうに、人として国民としては違はありませんが、男子と女子とによつて、それ/゛\実際の務はおのづから別れて居ります。
男子と女子とは生まれながらにして身体も違ひ性質も違つてゐます。それで見ても、その務がおのづから違ふことは明らかであります。強いことは男子のもちまへで、やさしいことは女子のもちまへです。国・社会・家を安全に保護していくやうなことは男子の務で、家庭に和楽を与へ、また子供を養育するやうなことは女子の務であります。
我等の父母が家庭で実際に行つてゐる事は、すなはちこの男子の務と女子の務との主なものであります。父は一家の長として家族を率ゐ、家計を支へ、また外へ出ていろ/\な仕事をして働いてゐます。母は主婦として内にゐて父を助け、家をとゝのへ、我等の世話をしてゐます。
男子と女子とがよく調和して各その務を全うしていけば、家も栄え国も栄えます。
第二十二課 勤勉
伊能忠敬は上総に生まれ、十八歳の時下総佐原村の伊能氏の家をつぎました。伊能氏は代々酒や醤油を造り、土地で評判の資産家でしたが、その頃は大分家が衰へてゐました。そこで忠敬は、どうかしてもとのやうにしようと思つて、一生けんめいに家業に励み、自分が先に立つて倹約したので、家も次第に繁昌して、四十歳になる頃には、もとよりも豊になりました。それで関東に二度も飢饉があつた時、二度とも金や米をたくさん出して、困つてゐる人々を助けました。また公職について村のために尽しました。
五十歳になると家を長女に譲りました。しかしそのまま楽をしようとはせず、これから一心に学問をしようと思つて江戸に出ました。忠敬はもと/\天文・暦法が好きで、これまでも仕事のひまには少しづつ勉強をつづけて、その知識がかなり深くなつてゐました。江戸に出ると間もなく、高橋至時といふ天文学者をたづね、その精密な西洋暦法の話を聞いて大そう感心し、自分より十九も年下の至時の弟子になつて、数年間倦まずたゆまず勉強したので、同門中及ぶものがない程学問が上達しました。
五十六歳の時、幕府の許を受けて北海道の東南海岸を実地に測量し、地図を作つてさし出しました。その後、幕府の命で諸方の海陸を測量することになり、寒暑をいとはず遠方まで出かけて、とう/\七十二歳で日本全国の測量をすませました。それからもからだの自由がきかないやうになるまでは、大中小三種の日本地図を作ることにつとめました。我が国の正しい位置や形状が始めて明らかになつたのは全く忠敬の手柄です。
格言 精神一到何事カ成ラザラン。
第二十三課 師弟
忠敬の先生の至時は幕府の天文方でした。四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、僅か半年の間に、不十分な語学の力でそれを読終つた上に、その書物について著述までもしました。もとから病身であつた至時は、このはげしい勉強のために大そう健康を損じて、翌年なくなりました。
至時は忠敬の根気のよいのに感心し、特に力を入れて教へ、又後には北海道その他の測量を忠敬にさせるやうに幕府にとりなしました。さうして新しい知識を得ると、すぐ忠敬にそれを伝へ、忠敬はすぐまたそれを実地に応用して、師弟一体になつて学問のために力を尽しました。至時の死んだ時には、忠敬は非常に力を落しましたが、先生の教を空しくしてはならぬと思ひ、その後は一層骨折つて、とう/\日本全国測量の大事業を成しとげました。
忠敬は七十四歳でなくなりましたが、死ぬ時に「自分にこれだけの事が出来たのは全く高橋先生のおかげであるから、自分が死んだ後は先生の側に葬つてもらひたい。」と家族の者にいひのこしました。今でも浅草の源空寺には、この師弟の墓が並んで立つてゐます。
第二十四課 教育
我等が学校にはいつてから、もう六年になります。入学した頃は、まだ幼くて、ものの道理もわかりませんでした。それが今では、日常必要な知識や技能も進み、また人の行ふべき道も一通りわかるやうになりました。我等がこれまでになることが出来たのは、教育を受けたおかげです。
人は誰でも教育を受けて、はじめて善良有為の人となることが出来るのです。世に立つて、農・工・商その他どんな職業に従事するにしても、教育を受けてゐなければ、よい成績を挙げることは困難です。まして職業について改良進歩をはかるには、なほさら教育を受けてゐることが大切です。我等が善良有為でよく務を果せば、我等はすなはちよい日本人であるのです。我が国民の一人一人が皆かやうな人であれば、国は盛になります。
我が国では、明治五年に学制が定められて義務教育の基が立ち、同二十三年には教育に関する勅語が下つて教育の大方針がきまりました。今日の制度では、各市町村が、その区域内の児童を皆就学させるに足るだけの尋常小学校を設けることになつてゐます。国民はその子弟を満六歳から必ず尋常小学校に入学させて、六箇年の課程を卒へさせる義務があります。
世界の文明国は皆義務教育の制度をしき、しかもなるべく修業の年限を長くすることにつとめてゐます。一国の文明の進歩も産業の発達も主としてその国民の教育の程度によつてきまります。国の繁栄を願ふ者は教育を受けることの大切なことを知らなければなりません。我等は尋常小学校を卒業して後も、身体の発達に注意し、徳行を修め、知能を磨くことを怠らないやうにしませう。又事情が許せば、高等小学校や実業補習学校に入り、或は他の学校に進んで、十分に教育を受け、益善良有為の人となるやうにつとめませう。
第二十五課 教育に関する勅語
教育に関する勅語は明治二十三年十月三十日、明治天皇が我等臣民のしたがひ守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜はつたものであります。
勅語を三段に分けますと、其の第一段には
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏速ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
と仰せられてあります。
この一段には、まづ皇室の御祖先が我が国をお始めになるにあたつて、其の規模がまことに広大で且いつまでも動かないやうになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をお愛しみになつて、万世にわたつて御手本をおのこしになつたことを仰せられ、次に臣民は君に忠義を尽し親に孝行を尽すことを心掛け、皆心を一つにして代々忠孝の美風を全うして来たことを仰せられてあります。終に以上のことが我が国体のきつすゐなりつぱな所であり、我が国の教育の基づく所もまたこゝにあることを仰せられてあります。
第二十六課 教育に関する勅語(つゞき)
勅語の第二段には
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
と仰せられてあります。
この一段には、初に天皇が我等臣民に対して爾臣民と親しくお呼びかけになり、我等が常に守るべき道をお諭しになつてあります。
其の御趣旨によると、我等臣民たるものは父母に孝行を尽し、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に分を守つて睦まじくしなければなりません。また朋友には信義を以て交り、誰に対しても礼儀を守り、常に我が身を慎んで気ままにせず、しかも博く世間の人に慈愛を及すことが大切です。また学問を修め業務を習つて、知識才能を進め、善良有為の人となり、進んでこの智徳を活用して、公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切です。また常に皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ、其の他の法令を守り、もし国に事変が起つたら、勇気を奮ひ一身をさゝげて、君国のために尽さなければなりません。かやうにして天地と共に窮ない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等の務であります。
終には、以上の道をよく実行する者は、忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風をあらはす者であることをお諭しになつてあります。
第二十七課 教育に関する勅語(つゞき)
勅語の第三段には
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民卜倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
と仰せられてあります。
この一段には、前の第二段にお諭しになつた道は、明治天皇が新におきめにな壇つたものではなく実に皇祖皇宗がおのこしになつた御教訓であつて、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、またこの道は古も今も変りがなく、どこでも行はれるものであることを仰せられてあります。最後に、天皇は御みづから我等臣民と共にこの御遺訓をお守りになりそれを御実行になつて、皆徳を同じくしようと仰せられてあります。
以上は明治天皇のお下しになつた教育に関する勅語の大意であります。この勅語にお示しになつてゐる道は我等臣民の永遠に守るべきものであります。我等は至誠を以て日夜この勅語の御趣意を奉体せねばなりません。
尋常小学校修身書巻六 児童用 終
昭和二年十一月十四日修正印刷
昭和二年十一月十七日修正発行
昭和二年十一月十七日翻刻印刷
昭和二年十一月三十日翻刻発行
尋常小学修身書巻六児童用
臨時定価金拾銭
昭和二年十一月廿二日
文部省検査済
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